Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

小学生の男子が抹茶を飲んだ結果と、店と客のやり取りに思いを馳せた話。

 

鳥羽のホテルで毎月抹茶を点てているのですが、そこでの出会いはまさに一期一会で、連絡先を交換して頂くかたもいるのですが、住んでいるところが遠いと、なかなかもう一度会いましょうということにはならないものですね。

 

小学2年生の男の子が抹茶を飲んだ結果

 

以前のツイートなんですが、こんな出来事がありました。

 

 

 

 

 

大阪から、鳥羽に旅行に来た家族で、この男の子がいちばんお抹茶をおいしく感じてくれたようで、嬉しさを言葉と、笑顔で力いっぱいに伝えてきてくれて、本当に涙が出ました。

 

大人とか子どもとか、関係はないのですが、どうしても大人は「お抹茶を飲むときは静かにしなきゃ」「たいへん結構ですって言うんでしたっけ」というかんじになるので、なんとなく自分としても感情が落ち着いてきてしまったと思っていた時期でした。

 

誰かにご飯をつくってあげるときもそうですが、「おいしい!この味好き!」と言ってもらえると、またつくろうと思えるように、抹茶もそういうもので、自分が商業的なサービスとしてお茶をやるのを避けがちなのは、コミュニケーションの部分が薄まってしまうからなんだと、気づきがあったのが最近のことです。

 

好きなことを仕事にする時の嫌なこと

抹茶を点てることを仕事にしていますと言うと「好きなことを仕事にしてていいねえ」と言われます。

もちろん、自分で選んでやっているので、よくないわけではないのですが、すべてのことでそうなように、楽しさとめんどくささや、好きと嫌いは同居しているものです。

 

単なる抹茶サービスの提供が好きなのではなく、そこで起こる感情の交流が好きです。

 

目の前に座った人が、まるでコーヒーメーカーのボタンを押すかのように「抹茶ひとつ」と言って、そっぽを向いているような、ドリンクとしてお茶を飲むのであれば、それをするのは自分でなくともいいな、と思ってしまいます。

 

おいしかったと伝える事ことのよさと、サービスの授受の非人間化

だから、というわけでもないですが、わたしは作った人の顔が見える距離感の飲食店に行ったときには、たとえばラーメン屋とか、町のおじさんがやっている居酒屋とかですが、「おいしかったよ」と声をかけるようにしています。

 

単純に自分が気持ちいいだけですが、こういうやりとりは、最近むずかしい時代になっているような気もします。

 

お金を払ってサービスを受けるというありかたの中に、人と人がやり取りをしている感覚が減って来ているような気がします。

 

じゃりン子チエとか、こち亀とかの漫画が好きで、子供の頃からよく読んでいたのですが、客と店主が曖昧な関係というか、チエちゃんも両津も、店番や交番の留守番をお客さんにやらせたりしています。

 

きっちり線引きがされているのが今という時代なのかなという気持ちです。