Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

お金をつかって購入できる幸福の総量を増やすより、日々の幸福に敏感になって生きていきたい。

神崎です。

このまえ、こんなツイートをしました。

 

自分個人にとって、お金を稼ぐというのはどういう意味があるんだろうということをよく考えるのですが最低限度の生活ができるくらい、すくなくとも家で寝起きする生活ができて、三食たべられるくらいのお金があって、あとはなにを望むのだろうかと、自分の中での問いに答える期間を設けていました。

 

大学を卒業したあとの2年近くの間、金銭的にはかなり貧乏生活をしていまして、バイト代をお金ではなくて食事でもらうとか、お茶の葉っぱでもらうとかしていました。

家賃が払えるくらいは稼いで、自炊で食いつめたり、人のお手伝いをしてご飯をごちそうしてもらったり、茶をたててご飯をもらったり、食事さえ何とかなればなんとか生きてはいけるなと、ギリギリのギリギリで、人におすすめなんか絶対にできない生活ですけども、そんな時期に、じゃあお金があったらなにに使うんだと考えていました。

ほんとうなら「大学に通っていたなら大学生の間にやれよ」と思うようなモラトリアムだと思うわけですが、卒業して、みんなが就職して働いてる間にそういうことをしていました。

 

一応、大学4年生の時に就職活動はして、内定を何社か頂いていたので、ありえた世界線としては「固定で月収をもらいながら、日々を労働に費やして、余暇を娯楽につかう」という生活も存在することを頭の片隅に置きながら「茶人」という誰にも正解がわからない生き方をやっていました。

 

これは決して「社畜になりたくない」というような攻撃的な考え方ではなく、自分の人生を振り返り、学生時代にインターンシップもしてみた結果、日常的に固定的な人たちと接するコミュニティに長期的に存在することが壊滅的にダメという自己分析の結果で考えた自分なりの生存戦略だったようです。ダメというのは嫌だという感情的な理由ではなく、周りに迷惑をかけてしまうという意味でのダメです。

 

世間的な意味での理想的な暮らし、人からうらやましがられるようなライフスタイルをするためのコストはかなり高いと思うんです。新しい服を頻繁に買ったり、新作のスイーツを食べたり、新しくできたお店に行ったり、いろんな人と飲み会に行ったり。つまり消費的な娯楽。

 

隠居とまではいかなくても、家の近くの川沿いや町を散歩したり、友人と歩いて銭湯に行ったり、文章をかいてみたり、図書館で借りた本を読んだり、ネットがあるならyoutubeだって無料で見れるし、プロから素人まで、色々な人が書いた色々なできごとや感情のうごきの話が無限にツイッタ―でもカクヨムでも読めるので、実は全然お金がかからない娯楽だってあるわけです。

 

娯楽という特別なカテゴリにわけなくても、料理だって季節によって変わる食材や、調理のしかたで変わる味をたのしむ事ができるし、気軽にたくさんの人とシェアする事ができる。

 

新しくどこかへ出かけて行って人と出会えばそれは物語のはじまりで、食事だって、一緒に道を歩くことだって、笑いあうことだって、なにもかもが特別で大切な思い出になる。

 

今は田舎に住んでいるので、東京に住んでいた時には出会わなかったような、名前の知らない花とか、草とか、鳥とかが色々あるし、スマホで調べればわかったり分からなかったりする。

 

人間が生まれてから、かつてないレベルで物と人と情報の行き来のコストが下がり、その恩恵をほとんどの人が受けられる現代の日本。もちろんそれだって恵まれているからのたまうことができる戯言ではありますが、恵まれていてもなお、もっともっとといろんななにかを求めているのが今の日本の社会のように思えます。

 

まだまだ、人間がもっと努力して世界中での不便さや不幸を解消していくべきだというひとつのあり方は尊重すべきでまったく否定などする気はないんですが、そういう社会的な方向性とはべつに、個人の幸福観としては足るを知るをやってもいいと言うか、足るを知るという言葉ができた時代に比べてはるかに、あふれるくらいに満ちてしまう時代なんじゃないかと、思ったりしました。