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日記ということにします。しばらくは。

【ブログ文章について】文章を書くことは、心の中で絡まった毛糸玉をほぐすようなことかもしれない

 

こんにちは、神崎です。

 

最近、文章を少しずつ書いて、外に出すようになって分かったことがあります。

 

 


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(写真は、都田という地域に遊びに行ったときに見つけた謎の妖精的なもの)

 

 

もともと自分は本や漫画を読むことが好きで、時間をつくって読んできました。どれだけの量を読んだら読書家なのかなんて議論はもう草も生えないほどの戦いが勃発するので控えますが。

 

ここ数年はTwitterのユーザーが増え、無料でこれだけのコンテンツを楽しめるなんて一生ヒマにならないなと思っていました。人の生活を覗き見るのは人間が人間である限り娯楽としてあり続けるんだと思います。

 

一度誰かのツイートで大喜利がはじまれば、それに乗じてネタをつくる人たちもいて、わたしは2ちゃんねるのときからROM専寄りなのであまり書き込まないのですが。

 

今日だと、音楽の著作物についての著作権料を徴収するために、JASRACのスパイが紛れ込んでいたらというお題的な、一種社会的な共有認知に対して、こんなJASRACのスパイだったらいい、とか、こんなJASRACのスパイは嫌だとか、140文字で、映画好きや小説好きを共感させるようなネタがばんばん流れてました。

 

 

なんの話だっけ。

 

そう、こんなに、言葉の使い方が上手な人たちを日常的に見ていると、自分もなんだか文章が上手な気がしてくるんですが、実際に書こうとしてみると、そうでもない。

 

おもしろい文章も、そうでない文章もいろいろ読んでいるのに、自分が書くのは別なんだなと当たり前のことに気づくわけです。

 

それでも、自分が本来書きたいことと、今書けることのギャップに落ち込みながらも書いていると、今まで気づかなかった心のモヤモヤというか、灰色のドロッとした塊のようなものがすこしずつなくなっているような感覚があって「あ、今、心に溜まっていた言葉のヘドロを外に排出してるんだな」みたいな。

 

ヘドロを読ませてすみませんというところではあるんですが、けっして汚いものでは別になくて、これはただのイメージで、別のものに例えるなら、何十本もの糸がもじゃもじゃに絡まった毛糸玉をほぐしていくような、そんなかんじでもあります。

 

今までの、言いたかったけど言わなかったことが、自分の中で絡まっていて、それがすこしずつスッキリしていくような感覚。

 

友人にブログを読んでもらうと「楽しさは伝わってくる」とか「伊勢に行ってみたくなった」と感想をもらうんですが「自分はこれで何を伝えたいんだ?」と思うととくに伝えたいことが今はないような、微妙な心境で、まあ、それでも書いてるうちになにか見えてくるんだろうか、と続けてみるようにします。