Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

柳田国男は乱読派だった

民俗学とはいうものの、じつは柳田国男学なんじゃないかと思うんだよな」という本読みの友人の言葉を聞きました。

柳田国男の聞いた話と解釈に対して、折口信夫とか吉本隆明とか、いろんな人が私はこう思うって言ってるみたいなところがあるんだよ、民俗学って」ということらしいです。

なるほどそれは面白い指摘かもしれないなと思いました。

じつは私も、「茶道」とは千利休学みたいなところがあると思っていたところで、「千利休の私はこう思う、に古田織部とか、織田有楽とか、小堀遠州とかが、じゃあ私はこう思うってやってるみたいなところはあるんだよな」と話が広がるきっかけになったのです。


この、本読みの友人とは「文章を書いて暮らせるようになりたい」と言っていた友人で、なにかテーマを決めて一緒に文章を書いていきたいということで、であるなら「柳田国男学」初めて見ることにしました。



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柳田国男は正直、『遠野物語』をさらっと流し読みしただけですが、民俗学というものの構造を考えると、非常に広い範囲の日本におけるあらゆること、衣服や道具や行動圏や話法、方言について学んでいたのだろうと思います。

『書物の話』によると、柳田は幼少期は本に全く触れない家庭環境だったそうです。八犬伝くらいしかなかったと。

その反動か、12歳頃から人に本を借りて読むようになり、むさぼるように読書するようになったと書かれています。

仕事も、本を整理する仕事に就いたそうです。

後に、私は世話をしてくれる人があって、内閣の記録課長という職を四年ぐらいやっていたが、その時内閣文庫の仕事もするようになり、私のような本好きの人間には誠に幸福な仕事であった。仕事というのは、集められた書物を分類・整理するのであったが、私は片っぱしから読んでいけばよいのであった。それでも読みたりなくて、家にまで小使に背負わせてきて読んだものである。今でも、私が読んで赤い付をつけておいた書物がたまに出てくるが、当時の自分を思い出して懐しいことがある。

(『柳田国男 民俗学創始者』本文より引用)

内閣府の蔵書ってどんな本があるのでしょうか、気になります。大塩平八郎の書もあったそうですが。


私は、本を読んでもそれが文章のほうに反映されなくて歯がゆい思いをしているのですが、柳田は「乱読」をどう自分の血肉にしたのか、と思いを馳せると、まあやはり賢い人だったのだろうか、あるいは読むのと同じくらい書く人だったのだろうか。尊敬という気持ちが生まれてくるものです。

よく、「多読」がいいか「精読」がいいかと論争がありますが、向いてるかどうかがあるのではないでしょうか。さらに言うといい書物を「精読」したうえで、「多読」していくのがいいような気もします。

ひとつのテーマに絞って本を何冊か読むと、書かれていることはだいたい同じで、言い回しや言葉選びが違うくらいのこともあるので、受験の時などは「一冊の参考書を完ぺきにすればいい」というのが最適解だったなあと思い出しました。

「自分の経験を訴えるような本を読んだと時の印象は強く残るものである、と最後にしめくくられています。

遠野物語』は、きっと柳田の人生経験を凝縮した本だったのだろう、と思うと、改めて読み返したい気持ちになりました