Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

それぞれの走る理由。ランニング12日目。

ランニング開始から12日目、ついに5キロ走れるようになった。


夏と秋の境目にいて、あたたまった地上の空気と、時折吹く涼しい西からの風が稲穂を揺らし、赤トンボやハグロトンボとともに走っている。



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1日目は2.4キロだったのが、今では倍になったのだ。




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(アプリを使い始めたのが8日から)


大きな進歩であると思う。1年続けたい、と思うけれど、欲をかかずに「今日も走れた。明日も走りたい」を地道に繰り返していきたい。

ところでランニングをする理由については、様々な角度や視点からの理由があるらしい。

『The Inner runnner―博士が教える運動と成功の切れない関係』ジェイソン・R・ガープ著を読んでいると、「とにかく走ることは最高だッ!!!!!!」というメッセージを受け取ることになるのだけれど、今は「1章の人はなぜ走るのか?」を読みすすめている。

中学時代に野球部に所属していたものの、体育会系的な考え方や上下関係、しごきてきなものに適合できず、それ以来というもの運動をする人たちとほとんど関わることもなかったので「なぜ走るのか」など、深い理由があると考えたこともなかった。

私は、とにかく体力がほしい。行動を増やすための体力を。そしてもっと賢くなりたい、脳に血液を送り込み、脳細胞の成長促進をしたいという2点でしかなかったのが、走っているうちに、ストレス緩和, 不安を和らげ気分を安定させる「ドーパミン」「エンドルフィン」の分泌や注意力, 幸福感, やる気を高め, 苦痛を和らげる 「ノルアドレナリン」分泌。そして注意力, 覚醒度を高め, 感覚を鋭敏にする「エンドカンナビノイド」分泌があるらしいので、それらの実感を得て、クセになってきてしまっているかんじがあって、「気持ちいいから走る」というタームに入ってきたようなところだ。


書籍ではいろいろな立場からの走る理由を紹介している。

まず、動物学者に尋ねたら、こう言うかも知れない。「人も動物だから走る。動物は走れるように進化してきたんだよ。走ることは、動物の生活に欠かせない。動物は、獲物を狩るために走る。獲物として追われるから走る。遊ぶために走る。パニックになって走る。同じ種のメンバーの気を引き、目立とうとして走ることもある」と。
動物学者の言う通りかも知れない。国中の学校の運動場に目を向ければ、人間という動物がスピードをひけらしている。

そういえば、小学生の頃などは足の速いの男の子がモテていたのを思い出すと、動物としての強さを走りでアピールし、そのアピールも効果があったのだということが分かる。

生理学者なら言うだろう。「私たちの身体は走るのに、とくに長距離を走るのに最適なつくりをしている」と


心臓のつくりや、毛細血管の広がり方が、「歩く」ことではなく「走る」ことに適しているらしい。さすが生理学者的視点である。

歴史学者に「人はなぜ走るの?」と尋ねたら「走ることは、社会史に深く刻まれているから」と答えるだろう。知られている最古のレースは、古代シュメールで紀元前2035年頃に行われた。競技スポーツ発祥の地とされる古代ギリシャでは、ランニングは体力を表す手段として高く評価されていた。ほとんどのランナーは、ギリシャメッセンジャーであるフェイディピデスが、戦場からアテネの城門まで走って、リシャ軍の勝利を伝えた伝説に親しんでいる。彼が出発した「マラトン」。それは今や、「死ぬ前にやっておきたいことリスト」の上位に挙がるレースの名称になった。

誰もが知っている「マラソン」その起源を振り返れば、「走る」という行為は4千年以上も前から、社会的に広く認められた活動だったのだ。ああ、みんな知っている、本当は「走る」ことの素晴らしさを私たちは知っていたのだ。

では現代に戻って、「人はなぜ走るの?」と社会学者に尋ねたら、「自己実現という社会の基本的欲求を満たすため」と答えるかも知れない。芸術や、地球・宇宙・個人の精神世界の探求における自己実現のためだ、と。健全な社会において、人々がエネルギーや才能を最大限に伸ばし、それを維持していくには、「道徳的エネルギー」という基盤が必要だ。それは、危険や疲労、冷笑や失敗といった恐れに対抗できる、勇気や意志のことである。

まだ12日ほど走っただけにも関わらず、生活の質はまったく別次元に向上したかんじもあるし、やる気に満ちて、自身も高まってきた気がする。気がする。

最後、「なぜ人は走るのか?」では禅師による答えで締めくくられている、

「人を走る気にさせる無数の要素を突き止めようとしたって無駄だ。たった一つの動機などないのだから。自分でもわかっていないけれど、私たちは美しも複雑な、実にバラエティに富んだ理由で走っている。そして、走る力があるから走っているのだ。

私にも走る力があったのだなあ。