Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

現代の茶室の意義ーコロナ下においてー

茶室は【自分が誰からも否定されない場所】であってほしいと思う。

お茶については思うことがありすぎて書くことを控えがちになってしまう。



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「ソーシャルディスタンスではなく、日本には間合いという美しい言葉があるだろう」というツイートを見かけたことを思い出している。コロナ下において「間合い」にそういう意味は含みにくいだろうけれども、たしかに、ほど良い距離感というものを人々は考えるようになったと思う。

東京にいたころは「過密がすぎる」と思っていた。密が過ぎるで過密なのに、さらに過ぎているな、と。電車の乗車率の定義的に、100%は座席が埋まって、つり革をつかんでいる人がいるくらいの量であるらしい。ふつうの満員電車は200%くらい。駅員さんが押し込むレベルになると250%くらい。もう、アスリートと呼んでいいと思っていた。プロの通勤者になると、2駅先で降りる人は挙動を観察すればわかると言うし、踏ん張らなくても揺れたり人を押さないように体重をコントロールできる人もいる。過密ゆえに東京人が獲得した独自のスキルと呼べるだろう。

人と人は、古来より適度な距離を意識し続けてきたのは間違いない。ホームグラウンド的な場所があったり、縄張り意識というものも昔からあったのだろうし、他人に近づかれると不快な気持ちになるパーソナルスペースも最近ではよく知られている。50センチ以下の距離は絶対的に他人を入れたくない範囲であり、拒絶反応、怒り、不安などが生じるとされている。満員電車は例外で、視線を合わせないとか体重をかけないとか「人」ではなく「物質」寄りの存在に徹することで、互いの不快感を回避できているらしい。なんでも抜け道があるものだ。

人間は、外界と自分のスペースを区別するため、あるいは守るためにさまざまなものを用いて、区切りを作ってきた。西洋であればレンガや石をつかって自然から強固に守っているし、日本では木材の建築でありながらも、縁側や土間のような外界と内界を連続させた曖昧な空間をつくり、接続的に世界を区切っていた。考え方の違いが大いに現れていておもしろい部分だ。

テリトリーという言い方もある。とにかく人は【自分が安心できる領域】が必要なのだ。誰でも。本当なら家族であるとか職場であるとか、それぞれの「社会」がそうであればいいものの「家族だからこそ言えないこと」があったり「見せられない顔」があったりするのもまた人間である。どうしても取り繕ってしまう。いい顔を見せたくなる。気を張りつめさせてしまう。どこにいても自分らしさを表現できる人はごくまれな存在であろう。

茶室、という場所はどのような場所になるのだろうか、とよく考える。どのような領域だろうか。密室的で、秘密的で、密接的である。ソーシャルディスタンスとは真逆の方向性と言える。なにせ、ルーツは竪穴式住居にあると思っている。狭くて、暗くて、温かい空間だ。そんな場所だからこそ、気を抜くことができるし、適度に緊張することもできる。言葉は熱を帯びてくるし、空間にとろけだす。胸に秘めていたことも、零れ落ちてしまう。

お茶、というものは、距離を計る飲み物であると同時に、距離を紛らわせる飲み物だとも思う。ホッと気がゆるむのはお茶のせいだ。脱力すれば、やさしくなれる。笑いながら怒れる人はいない。

茶室をどういう場所にしたいか、については思うところがある。抑圧された生活を送る人たちにとって【自分が誰からも否定されない場所】であってほしいと思う。

現代はーというとまた違うのかもしれないけれど、少なくとも現代も「生きることは我慢である」という側面は否めない。ブッダが「すべては苦である」と言った時代から変わっていない。食べ物だって、安心安全だって、格段によくなったはずなのに、苦しい。もうこの苦しさは「人間が人間であるゆえ」のものである。人と人に、間があってはじめて人間になる。人は人と関係性をつくることで生きていけるが、同時に、悩みの9割は人と人の間にあると言える。自分と他者の境目が薄れてしまって、踏み込み過ぎたり、あるいは遠ざかりすぎたり、傷つけたり、傷つけられたりする。

「人といなければ悩みが消えるんじゃないか」という仙人的な解決手段はあるけれど、やっぱり人は1人ではいられない。現実的に孤独は脳細胞を破壊するらしい。生殖や繁殖から遠ざかるからだろう。

人と人との距離感で苦しむ人たちが、ひとときでも苦しみから逃れられる場所、それが茶室であるし、あってほしい。

岡倉天心は『茶の本』の茶室の項で

われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか。

と述べている。

コロナ下において「茶室」という場での人間関係については考えるべきことがたくさんあるが、それでも、オンラインの良さと同時に、オフラインの良さの再発見があり、なおのこと茶室が必要になってくるような気配を感じるものである。

※ちなみに私は、茶を飲むスペースはすべて「茶室である」と考えている。