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日記ということにします。しばらくは。

『仮説の物語り』 松本健一著 レビュー

『仮説の物語り』 松本健一

群馬県出身、東京大学経済学部卒業、一般企業勤務を経て法政大学大学院で近代日本文学を専攻した著者の、本。

近代日本文学の研究を経て「仮説」というものから物語は生まれるのだ、という気づきにいたり、その気づきを『群像』に三年かけて発表したものを加筆修正してまとめたものだ。



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要旨はこのようなもの。

・事実とは、はじめからそこにあるものではない。それは仮説によって発見されるものだ。では、それはどのようにして発見されるのか。そして、どのように表出されるのか。そういうことについて、現代の作品をとらえあげ、考えた。

・どのような事実をそろえても、それらの事実をどう読み、それらをどう統制し、どう秩序立てるかという歴史のイデーと、それを生きる人間の思想がなければ、事実は史料として並べられているに過ぎない。翻っていうと、同じ事実(素材)を扱いつつも、主体のイデーによって歴史はまったく異なった物語を構成する、ということだ。

『人魚を見た人』『鼻行類』『わが友マキアベッリ』『司馬遷』などの作品を引用して丹念に「仮説の力」を解き明かしている。

中でもとくに気に入った部分を要約してみた。

吉川英治宮本武蔵に「求道者」という思想を見出したが、坂口安吾は「凡才でありながら、必死で生きたかった人」であるという思想を見出した。そして、ある意味でこれらは本人たちの自画像である。

1892年〜1962年の激動の軍国主義日本の中に生きた吉川英治がみずからその時代と一体化し、武蔵を求道的なヒーローとして描いた。宮本武蔵軍国主義イデオロギーと一体化させることで大量の読者に熱狂的に受け入れられる一因となったのだ。

武蔵が、おのれの腕力にたより、色欲に悩み、試行錯誤をへて剣と心を磨く、そして次第に悟っていく。そういう求道者の像は、軍国日本がひとりひとりに非常時の「覚悟」を求め、一個人のためではなく、社会や、国家や、民族や天皇といったおおいなるもののために尽くして死んでいくことを求めようとしていたという背景に一致するのだ。

一方で1906年~1955年、少しズレて同時期に生きた坂口安吾は、あくまでも宮本武蔵は「じぶん個人」が生きていくために勝つ剣法を生み出していったのだと考えた。生き残る「合理」にもとづいた技術である。宍戸梅軒の鎖鎌には二刀流、吉岡一門の多勢に対しては奇襲で、天才佐々木小次郎に対しては心理作戦で、というように「勝ち残るため」の方法であり宮本武蔵の物語は「生き残るために必死」の物語だったのだと。必死だからこそ美しい。

このように、吉川英治宮本武蔵に「時代」を見出し、坂口安吾は「がむしゃらに生きようとする自分自身」を見出したのだ。

これこそが、おなじような資料をそろえても、その資料を扱って構成される物語はまったく異なる形になるということだ。

また、どちらにしても吉川英治が「求道者的に生きたい」という「私」を投影し、坂口安吾が「合理的に生き残ろうとする必死さ」という「私」を投影していることが、わたしたち読者に「リアリティ」を感じさせてくれるのではないだろうか。

そして、小松茂美の『利休の死』は、歴史的事実として追求したものではありながら、そこに小松茂美の「私」が反映されていないため、リアリティを感じないのかもしれない、と考える。

宮本武蔵にしても、利休にしても、彼らがその時、どのような思想によって生きていたかは、作者の仮説に過ぎない。が、その仮説をどこまでリアリティのあるものにするか、が魅力と言えよう。

以上である。

また、どのようにして「事実」から「思想」や「物語」を見出していったのだろうか、ということも、丹念に追っているのでおもしろい。

ほぼ論文に近いような文章なので、参考文献を共有していなければ理解が難しい部分も多かったのだけれど、参考文献を読んでいなくとも、なるほど、と思う内容が多い。


人魚を見た人の話などもおもしろかった。一読してみるといいかもしれない。