Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

『茶の本』第六章、花を「画商の岡倉天心」として解説する。

茶道に足を踏み入れてから2年ほどたった時だった。

先輩に勧められた『茶の本』をはじめて読んだとき「茶というものはこうなんだよ!!!」納得と興奮を覚えた。

なんとなく感じていた、茶道の良いところがはっきりと言語化されている!!!と思った。

そう感じた人は多いのではないか、とも思う。私だけではないはずだ。

日本語訳のものしか読まなかったけれど『茶の本』は美文であり名文であった。「日本人」であること「日本に生まれたということ」それらがどういうものなのか、そしてどういう感覚をもたらすのかについて想いを巡らすきっかけになった、そういった部分に光をあててこなかった自分を恥じた。そんな記憶をよく覚えている。




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100分で名著では隈研吾氏をゲストに迎えて「花」の章を読み合わせていた。

花によっては「死」が美しいものもある、と述べ、桜を挙げている天心。

彼らは人間のような卑怯者ではない。花によっては死を誇りとするものもある。たしかに日本の桜花は、風に身を任せて片々と落ちる時これを誇るものであろう。吉野や嵐山のかおる雪崩の前に立ったことのある人は、だれでもきっとそう感じたであろう。宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら

そして続く「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く。」という言葉。

コメンテーターの伊集院氏は天心の死生観が存分に現れていると語る。人は死に間際にバタバタしてしまうから潔くない、美しくないと。

隈研吾氏も続いて「死」と素材について語る。建築的に石というのは死なない素材、一方で木というのは死んでいく素材。日本人は木が好き。朽ちていくのが人間らしいじゃない。と。

西洋は「永遠」をよしとする世界観で、自然に対して支配的で、美しいとするフォルムも直線的である一方、日本人は自然に対して調和的で、どちらかというと自然のほうがちょっと勝つ。美しいとするフォルムも曲がっていたり、皮が残っているものがいいという価値観だった、と語る。

そして、最後の章では利休の死を取り上げる天心

利休が自己犠牲をすることに定められた日に、彼はおもなる門人を最後の茶の湯に招いた。客は悲しげに定刻待合に集まった。庭径をながむれば樹木も戦慄するように思われ、木の葉のさらさらとそよぐ音にも、家なき亡者の私語が聞こえる。地獄の門前にいるまじめくさった番兵のように、灰色の燈籠が立っている。珍香の香が一時に茶室から浮動して来る。それは客にはいれとつげる招きである。一人ずつ進み出ておのおのその席につく。床の間には掛け物がかかっている、それは昔ある僧の手になった不思議な書であって浮世のはかなさをかいたものである。火鉢ひばちにかかって沸いている茶釜ちゃがまの音には、ゆく夏を惜しみ悲痛な思いを鳴いている蝉せみの声がする。やがて主人が室に入る。おのおの順次に茶をすすめられ、順次に黙々としてこれを飲みほして、最後に主人が飲む。定式に従って、主賓がそこでお茶器拝見を願う。利休は例の掛け物とともにいろいろな品を客の前におく。皆の者がその美しさをたたえて後、利休はその器を一つずつ一座の者へ形見として贈る。茶わんのみは自分でとっておく。「不幸の人のくちびるによって不浄になった器は決して再び人間には使用させない。」と言ってかれはこれをなげうって粉砕する。

何が言いたいかというと「利休は死に際が潔くて美しい」ということだ。まるで桜のようである。日本人はこうでなければならない。

茶の本』がニューヨークのボストンでわずか4か月で執筆され、1906年にフォックス・ダフィールド社から出版され、1929年に邦訳が出版された時期と照らし合わせると、1914年第一次世界大戦開戦、1919年頃の民族自決の流れ、1933年の国際連盟脱退、1945年の終戦に向かっていく、走りの時期であって、愛国精神、ナショナリズム、そして散り際が美しいとする死生観などが時代に影響していたのではないか、あるいは時代を先取りしていたのではないか、と伺う見方もある。

実際には『茶の本』よりも『東洋の覚醒』や『東洋の理想』などのほうがナショナリズム的であるが、天心は、幼少のころから家業の関係で生の英語に触れていた国際人であったことや、フェノロサの通訳をし、日本美術院を創設し、近代日本の美術に革命的貢献を残した人物であることからもよく分かるように、世界情勢についても敏感であった。

茶の本』を書くにあたる背景として、天心は松本清張によると「天性のプロデューサーであり、オーガナイザーであり、アジテーターであった」と評されている。

そして、時期的には腹心からの裏切りもあり、東京美術学校の校長を辞職させられて、人生で初めてお金に困り、人脈にも困り、インドに行って『東洋の理想』を書き、フェノロサの後任としてボストン美術館中国に本部長に就任したという経緯で書かれている。

言ってしまえば天心は日本画の地位を上げること、同時に自分の地位を確保することが目的であった。

そう見ていくと、日本文化を理解しなさいというメッセージ以上に隠されたメッセージが浮かび上がってくる。

単刀直入に言うと、アメリカよ日本画を買いなさい、ということだ。天心はまったく直接的なことを書かずに、巧妙にセールスコピーを書いていたと読むこともできる。

一節を紹介しよう。

喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。花とともに飲み、共に食らい、共に歌い、共に踊り、共に戯れる。花を飾って結婚の式をあげ、花をもって命名の式を行なう。花がなくては死んでも行けぬ。百合の花をもって礼拝し、蓮の花をもって冥想に入り、ばらや菊花をつけ、戦列を作って突撃した。さらに花言葉で話そうとまで企てた。花なくてどうして生きて行かれよう。花を奪われた世界を考えてみても恐ろしい。病める人の枕まくらべに非常な慰安をもたらし、疲れた人々の闇やみの世界に喜悦の光をもたらすものではないか。その澄みきった淡い色は、ちょうど美しい子供をしみじみながめていると失われた希望が思い起こされるように、失われようとしている宇宙に対する信念を回復してくれる。われらが土に葬られる時、われらの墓辺を、悲しみに沈んで低徊するものは花である。

花は素晴らしいということを、これだけ情緒的に詩的に書いた文章があるだろうか。谷崎純一郎の陰影礼賛を彷彿とさせる美文である。

悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。羊の皮をむいて見れば、心の奥の狼おおかみはすぐにその歯をあらわすであろう。世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている。たぶん人間はいつまでも禽獣を脱しないから罪人となるのであろう。飢渇のほか何物もわれわれに対して真実なものはなく、われらみずからの煩悩のほか何物も神聖なものはない。神社仏閣は、次から次へとわれらのまのあたり崩壊ほうかいして来たが、ただ一つの祭壇、すなわちその上で至高の神へ香を焚たく「おのれ」という祭壇は永遠に保存せられている。われらの神は偉いものだ。金銭がその予言者だ! われらは神へ奉納するために自然を荒らしている物質を征服したと誇っているが、物質こそわれわれを奴隷にしたものであるということは忘れている。われらは教養や風流に名をかりて、なんという残忍非道を行なっているのであろう!

花と人は不断の友であるのに、どうして花は美しくあり、人間はあさましいのだろうかと対比している。

花よ、もし御門みかどの国にいるならば、鋏と小鋸に身を固めた恐ろしい人にいつか会うかもしれぬ。その人はみずから「生花の宗匠」と称している。彼は医者の権利を要求する。だから、自然彼がきらいになるだろう。というのは、医者というものはその犠牲になった人のわずらいをいつも長びかせようとする者だからね。彼はお前たちを切ってかがめゆがめて、彼の勝手な考えでお前たちの取るべき姿勢をきめて、途方もない変な姿にするだろう。もみ療治をする者のようにお前たちの筋肉を曲げ、骨を違わせるだろう。出血を止めるために灼熱しゃくねつした炭でお前たちを焦がしたり、循環を助けるためにからだの中へ針金をさし込むこともあろう。塩、酢、明礬、時には硫酸を食事に与えることもあろう。お前たちは今にも気絶しそうな時に、煮え湯を足に注がれることもあろう。彼の治療を受けない場合に比べると、二週間以上も長くお前たちの体内に生命を保たせておくことができるのを彼は誇りとしているだろう。お前たちは初めて捕えられた時、その場で殺されたほうがよくはなかったか。いったいお前は前世でどんな罪を犯したとて、現世でこんな罰を当然受けねばならないのか。

前世でどんな罪を犯せば、突然人間にハサミでちょん切られて、手で曲げられて、乱暴な目にあわされなければならないのだろう、かわいそうな花。と言っている。

わが茶や花の宗匠のやり口を知っている人はだれでも、彼らが宗教的の尊敬をもって花を見る事に気がついたに違いない。彼らは一枝一条もみだりに切り取る事をしないで、おのが心に描く美的配合を目的に注意深く選択する。彼らは、もし絶対に必要の度を越えて万一切り取るようなことがあると、これを恥とした。これに関連して言ってもよろしいと思われる事は、彼らはいつも、多少でも葉があればこれを花に添えておくという事である。というのは、彼らの目的は花の生活の全美を表わすにあるから。この点については、その他の多くの点におけると同様、彼らの方法は西洋諸国に行なわれるものとは異なっている。かの国では、花梗のみ、いわば胴のない頭だけが乱雑に花瓶かびんにさしこんであるのをよく見受ける。

ニューヨークにいるはずの天心は今いるところを「かの国」と呼び、こんなに美しく情緒にあふれた花なのに、「かの国」では頭だけ切り取って飾っている。野蛮である、とディスっている。

茶の宗匠だけが、宗教的に花を扱っている。生命として対等に花に接している。と述べている。

花の独奏はおもしろいものであるが、絵画、彫刻の協奏曲となれば、その取りあわせには人を恍惚とさせるものがある。石州はかつて湖沼の草木を思わせるように水盤に水草を生けて、上の壁には相阿弥の描いた鴨の空を飛ぶ絵をかけた。紹巴という茶人は、海辺の野花と漁家の形をした青銅の香炉に配するに、海岸のさびしい美しさを歌った和歌をもってした。その客人の一人は、その全配合の中に晩秋の微風を感じたとしるしている。

茶の湯、茶道というものは総合芸術であるので、花だけ飾るのも良いが、書画、花、焼き物と撮り合わせるのもいい。和歌にも精神性があふれているぞ、と述べている。

天心の弟子として天心に心酔してインドにまで行った(連れて行かれた)横山大観と、菱田春草。「朦朧画」「朦朧体」と呼ばれる(当時は批判の意味だったようである)色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光をあらわした。さながら水墨画のような、儚げであり、夢の中の景色をみているような雰囲気がある。

西洋の写実的で直線的で、強さのある美的感覚は、日本(近代日本美術の我々)からすると、乱暴で情緒に欠けているのではないか?という西洋へのメッセージとともに、理解したいなら買いなさい、売ってあげますから、という強気な姿勢で書いたセールスコピーライティングなのではないか、と邪推するわけである。

セールスコピーライティングが低俗であるとか下品だとかいうわけではない。天心はどんな目的でこの本を書いたのか、という話である。文学なのだろうか、善意からの日本文化紹介なのだろうか、いや「画商」として書いているだろう、という話である。

西洋から、日本は見下されていたという時代背景もある。近代化に遅れている未開の部族である、と。

新渡戸稲造が『武士道』を記したのもだいたい同じ時期の1900年で、日本の知識人たちは「日本文化」というものをひとつの輪郭で形づくり、パッケージして西欧諸国に提示するという役割を担っていた側面もある。

日本という国は美しく、崇高で、小なるものに大いなるものを見出す。辺境の小国であるからと言って見下すでないぞ、と。

日本でもこの本が売れた理由、売れる理由は「私たちも日本人なのに、日本の美というものを理解していなかった」と思わされるからであろう。

江戸幕府打倒の流れ、文明開化、ガラスや電気やさまざまな素材が日本に入り込み、生活様式もがらっと変わってしまい、うまく調和させられぬまま、違和感をいだきつつ暮らしていた日本人にとっても「日本とはなんだ」「日本の良さとはなんだ」と考える大きなタームであったと言える。


そういう意味でも、天心の美術への理解はすさまじいものがあり、当時としても天心ほど日本の美術への理解があり、そして西洋との比較ができていた人物などいなかったであろう。

松本清張は天心を「アジテーター」であると評した。扇動家である。出版から100年以上経ったこんにちでも『茶の本』を読んで「茶道を学びたい」と思わしめるところが、天心のすごさであり、このような美的感覚を保存し、継承しているのが茶道のすごさでもあると思う。