Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

『知的複眼思考法』を読んだ感想

ショーペンハウアーは『読書について』で読書とは他人に考えさせることだ、と言い、それでいて自分で何も考えないようではダメだ、というようなことを述べていた。『知的複眼思考法』も近しいことを述べている。



f:id:kamkamkamyu:20200824182133j:plain



「自分で考えろ」というのはやさしい。「自分で考える力を身につけよう」というだけなら、誰でもいえる。そういって考える力がつくと思っている人々は、どれだけ考える力を持っているのか。考えるとはどういうことかを知っているのか。本を読みさえすれば、考えることにつながるわけでもない。自分で何かを調べさえすれば、考える力が育つわけでもない。ディスカッションやディベートの機会を作れば、自分の考えを伝えられるようになるわけでもない」

(『知的複眼思考法 誰でも持っている想像力のスイッチ』本文より)

1章では読書法について、2章では考えるための作文作法について、3章は問いの立て方と展開の仕方について4章では知的複眼思考法の身につけるについて。

前提を疑え。常識や紋切型で思考停止するな。単眼思考をやめろ。分からない言葉は分からないままにするな。読んだことをすべて信じるな。著者は誰に向けて書いているか考えろ。使われているデータをそのまま信じるな。反論を持て。反論を読め。著者の言いたいことを先読みして議論を組み立てろ。ものごとの多面性を考えよ。関係論でものを考えよ。

などなど。基本的でありながら、クセづけるのは難しい、情報への向き合い方が、やさしく、しかし厳しく論理的に述べられている。


ではさっそく、著者の言うように、この書についてもあえて批判的になるとしたら、この本を読むことで「読むハードル」と「書くハードル」が上がるじゃないか。とも思う。

そして「知的複眼思考を持つことと幸福が直結するのだろうか」とも思う。

書いてあることはまぎれもなく正論である。しかし、もともとある程度、本に親しみのある人、書くことに慣れているる人がこの本を読んだとき、血肉にし、本当の自分で考える力を手に入れられるのではないか。

購入したときの帯には「全国15万人の大学生が選んだベストティーチャーの奥義」と書かれている。著者は東京大学大学院教育学科を修了し、ノースウエスタン大学大学院博士課程を修了している。1900年代は大学と言えば「知」の最高峰のようなところもあったかもしれない。

1955年生まれの著者が大学進学した頃は1970年代半ばから後半と考えられるが、そのころは大学進学率も40%程度だった。しかし1996年ころから大学進学率は45%を超え、2011年には56%を超えている。

昔に比べ人々が「賢くなった」からだろうか。「大学が増えた(下限の受け入れ人数が増えた)」からだろうか。

持論ではあるが、そもそも読書というものは「やり方」を教わっているようではダメなのではないか。

目次から読みましょうとか、著者の言い方で独自の定義をしている箇所をよく読みましょうとか、テクニック的なことなら、なるほどそういう読み方もあるかと勉強にもなるけれど、読書のやり方について1から10まで書いてある時点で、この本は読書をしたことがない人を想定しているのではないか?と感じる。

文章は読んだ量に比例して読めるようになっていくし、書いた量に比例して書けるようになっていくものだろう。

最初のうちはぜんぜん頭に入ってこなくても、稚拙な単語を並べたくらいしか書けなくても、凡人であるならば、量を積み重ねることだけが上達の方法なのではないか。

はじめから、読むこと、書くことの正解を提示されてしまっては、それ以下がやりにくくなってしまいやしないだろうか。


またそもそも、社会を良くするには「自分の頭で考えていく」のが本当に必要だったのだろうか。

知識というものを扱うようになったからイコールで「社会は良くなっている」のだろうか。

知識があるゆえに、自分で考えることができるゆえに、失敗を想定して、チャレンジできる人が少なくなる場合もある。

ほとんどの未来、つまり「これをやったら成功するか失敗するか」は「考えてもわからない」ものだと思う。さらにいえば、基準次第でもあるけれど、だいたい「失敗」する。

「失敗」を繰り返して改善していくことで「成功」にたどり着くものだとして、知性があるがゆえに、知識があるがゆえに「失敗」を予想してしまって足が止まるケースだってある。臆病になってしまうというリスクだ。


さらに考えれば知識を獲得して、自分の頭で考えることで、楽をする道を発見することもできるようになる。「失敗を回避」できるようにもなる。

個人の幸福な道を選ぶことができるようにもなるだろう。個人と社会の幸福が完全に一致していればいいものの、はたしてどうだろうか。「知性を獲得して楽をしている人間」は社会に貢献しているのだろうか。

右にならえの集団として、整列して、平均的なゾーンにおさまっていたほうが、社会を維持するのにも楽であるということもある。同じ規格のものを生産する工業社会はそうやってできていった。

工業社会から脱却することが真の豊かさであるという論調も、果たして正しいのだろうか。

個性を大切にするということは、コストがそのぶんかかるということだ。頭をつかうこと、オリジナルでカスタマイズすること。「違いを認める」というのは「違いを許容するコストを誰かが負担する」ということでもある。

「自分で考えていく」「他人と違う考え方をする」という能力を身に着ける場合、それがむしろ自分の人生を壊すことにもなりかねない、というリスクも同時に考えていく必要があるのではないだろうか。

実際、ショーペンハウアーも賢いがあまりに社会性が欠如していたので、多くの人を敵に回し、不遇の時代も長かったようである。

自分の頭で考えて、個性を育てながらも、世間とは同調して波風を立てないように生きていく、という綱渡りのような人生を送る現実、というものも一考すべきであると思った。

最後に、私の結論を述べるとするならば、ここまで批判的に書いてみて拍子抜けかもしれないが「知的複眼思考は身につけたほうがいい」そして「臆病にならずに戦略的に失敗を重ねていったほうがいい」である。

はじめのうちは、よくわからないと思いながらたくさん読め、だし、恥ずかしい思いをしながら書け。である。

「これでいいんだろうか?」「身になっているんだろうか?」と思ったらこの本を読むといい。