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日記ということにします。しばらくは。

日本における茶の起源

茶がいつ、日本に入ってきたかは定かになっていません。

しかし『奥儀抄』によると天平元年(729年)四月、聖武天皇がおこなった季御読経のときに僧侶たちに引き茶として賜ったと書かれています。

そして『茶人物語』では唐から日本に茶を持ち込んだのは永忠とみるのが今のところ正確である、と述べています。
橋本素子さんの『日本茶の歴史』では、最澄も日本で茶を栽培していたと見ているようですが。

永忠は770年頃に唐に渡り、805年に帰国しています。35年も唐にいたので、あらゆる唐の情報を吸収してきた人物です。

世界の中心は唐の長安であったというほどの栄華を極めた時代。シルクロードも全盛期。商売が盛んで、交通インフラも今ほど整っていないなか、ラクダの肉やナマコまで流通して食されていた時代。服装も華やかなものが好まれ、女性の「美意識」もほっそりした体型からふくよかな体型が美しいとされるようになった裕福な時代。それが唐でした。

当時の唐の状況についてはこちらにまとめましたのであらためてご一読ください。
kamkamkamyu.hateblo.jp


『日本後記』に、嵯峨天皇が近江の国(滋賀県)への行幸中、崇福寺で永忠が茶を煎じたことが書いてあるそうです。

天皇はこれにいたく感動し、京都に帰ってからすぐに京都、近江、丹波、播磨などに茶園をつくるよう命じたと。

永忠が天皇に奉ったお茶は陸羽が考案していた煮茶ではなく、それ以前の中国の飲み方であった団茶だったようです。

団茶とは、茶の葉を蒸して臼でついて固めて、甘葛(あまづら)・厚朴・しょうがなどを加えていたものです。

みなさん歴史の授業で学びましたが、嵯峨天皇空海橘逸勢とともに「三筆」にあげられているほど達筆で、日本最初の勅撰漢詩集『凌雲集』や、『文化秀麗集』をつくるほどの文化人だったので、影響力もありました。

そのときにつくられた漢詩にも茶を詠みあげたものがあったようで『経国集』にも「茶はもの静かなもので、深い谷間に遊ぶようなものである、煎じるのをやめた後も、あたりには香りがたち込め、これを飲んで寝ていると、仙人になったような気がする」と。

お茶って、いまでは「あたりまえのもの」として親しみを持って飲んでいるのですが、当時からすると、ものすごい最先端の飲み物だったんですよね。

なぜなら、おいしい飲み物と言えば、酒かお湯くらいしかないからです。そして上述のように、薬味や薬草を煮て、飲むということはあったのでしょうが、お茶を飲んだときにはそのおいしさと不思議な味に驚いたと思います。

酒は稲作が始まる前から、何らかの雑穀か果実をつかった酒がつくられていたらしく、縄文土器は酒器として使われていたんじゃないか、という話もあります。

味のする液体、という区分でいくと、果汁、つまり果物はありました。三筆の橘逸勢(たちばなのはやなり)の性は橘ですが、これは柑橘の果物の名前です。

続日本紀』で県犬養美千代(藤原不比等の後妻、光明皇后母)が元明天皇から「橘は果子のなかでも最高のもので人の好むものである。金銀に混じってもそれに劣らず美しい。このような橘にちなみ、何時に性として橘宿祢を与えよう」と言われた、とあるのが「橘」の性の起源であるようで、それだけ、当時は果物も珍しい時代でした。

日本にとっては、当時の唐は憧れの国です。政治も法律も、建築も、土木も、医療もあらゆる知識や技術が、唐からの輸入でした。

平安時代の美人というのもそう考えると、いわゆるあの能面のようなかんじですが、唐の美的感覚が採用されていたんじゃないかと思います。

仏像が今でいうとアイドルの立体像みたいな感じだったんだと思います。やはり美しいものを形にしてあがめたいですから。

日本はまだまだ発展途上というか、文化的には未熟で、物質的にも豊かではないですが、それがゆえにたくさん食べ物を食べた証、つまり富が、美的感覚としてふっくらした顔と体型に結びついていったのではないかな、と。

話はそれましたが、日本に上陸した茶は、新しい画期的な飲み物として、高貴な人の飲み物として徐々に日本で飲まれるようになっていくのです。