Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

抹茶を飲むのに作法はしらなくてもいい。「作法」は人それぞれの「愛」のあらわれなのだから

茶道に初めて出会ってから9年目、茶人として活動して5年目。
ホテルでお抹茶を差し上げたり、お茶会の企画などをして、お茶の入口を広げる活動をしてきているのですが、よく聞いていただく質問があります。

「自分で抹茶飲んでみたいんですけど」「すこし作法も知りたいです」と。

聞きに来てくれる人には、一番かんたんに教えることにしています。

「抹茶を飲むこと」を必ずしも「茶道」として捉えることはなくて、ただのドリンクとして、ココアとかコーヒーとか、そういう位置づけで飲むのは良いことだと思うんです。

栄養も豊富ですし、飲み続けていくと文化に興味が接続されていくので、精神的にも豊かになります。

自分で飲むだけだったらつくり方も作法も気にすることはないですよ、とお伝えしているのですが、それでも「正しい(に近い)」つくり方、飲み方をお伝えするならこんな感じです。


【抹茶について】
抹茶の作り方
・粉をスプーンで一杯いれる
・粉がかぶるまで水を入れる
茶筅でくるくるかきまぜる
・30ccのお湯を注ぐ
茶筅でシャシャシャとやる

飲み方
・お茶碗を左手のひらにのせて右手を添える
・持ち上げて挨拶する
・右にいっかいまわす
・ゆっくり飲む
ぼくは、「伝統を学ぶ」という意味での「作法」は好きですし、個人的にもこれからも学びたいと思っていますが、同時に、抹茶の可能性を狭めるという意味での「作法」はいかがなものか、と思っています。

抹茶の飲み方も知らないの?とか、「礼儀がなっていない」とか、そういうことをおっしゃる方ってたくさんいて、もちろん作法や礼儀を知っていることは素晴らしいことですが、知らないことが悪いことではないと思うのです。

「作法の押しつけ」をするのって、本当に「茶道から学んだこと」でしょうか。

武者小路千家宗匠の書かれた本を読んだ時

「お茶ってどうやって飲んだらいいんですか」
と聞かれたので
「口で飲むんですよ」
と答えた

とありました。

雰囲気しだいではかなり痛烈な皮肉にもなりますが、しゃれっ気のあるジョークとして受け答えなさったのだと思います。

ぼくはこれを読んだときに、利休百首の「茶の湯とは、ただ湯を沸かし茶をたてて、飲むばかりなる、こととしるべし」という句を思い出しました。

実際には利休が書いたわけでも言ったわけでもない、という意見もあるようですが、本質はシンプルなのだと、気づかされる一句です。

「口で飲む」以上のことは、装飾なのだと思います。

ホテルで抹茶を点てているときに、カップルの男女にお茶を出しました。男性は「すみません、正座が苦手で」と言って胡坐で、抹茶をひとつずつたてて差し上げると「ありがとうございます。ごめんね、先に私いただくね」と彼女さんが彼氏さんに一声かけていました。

けっして「作法」として振舞ったわけではなく、「気遣い」で生まれた声かけでした。

ぼくはこの景色を見たときに「作法」のはじまりは「愛」だと確信しました。

その場に居合わせた人への「愛」がかたちをともなったものが「作法」なのだと。

「愛」のかたちは人それぞれです。かならずしも「茶碗をまわす」とか「お辞儀をする」になるわけではなく、その人なりの「愛のかたち」があります。

「大変結構です」と機械的に言われるよりも、にっこり笑って「おいしいい!!!」と言われたほうが、僕もうれしくなります。

抹茶を飲みたい、そして人に点ててあげたい、その気持ちだけ大切にして、自分なりの「愛のかたち」を探るのも、素敵な「茶道」なんじゃないか、と思います。