「走ること」は自分がただ住む町を自分にとってかけがえのない町にする。
10月 ジョギング再開
10月 しばらく走っていなかったのだけれど、また走り始めた。
昨日から1か月間、人が泊まっているので自分の時間をつくることが難しくなりそうで、朝に走ることにした。
2時半に寝て7時半に起きた。
5分間の座禅、懸垂機へのぶら下がりを30秒して、水出ししていた麦茶を飲んでから走った。
7:50~8:18
4.62㎞
例の通りミッドフット走法で走った。ふくらはぎもふとももも、以前よりも楽だった。
道中には柿がもうすぐ食べごろになりそうなたたずまいで木に実っていた。
柿若葉だった初夏が懐かしい。
周りの景色を味わう
こうして日々同じルートを走っていると、季節によって違う風景があることに敏感になれる。
ジョギングの友、『THE INNER RUNNER 博士が教える』で素敵な言葉を見つけたのでそのまま引用したい。
スローランニングは、周りの景色を楽しみ、自分のいる場所について学ぶチャンスを与えてくれる。
自分が暮らしている場所のことを本当に知っている人間が、どれくらいいるだろう?
ランニングは、車では行けないところへ連れて行ってくれる。ゆっくり走ると、周りの環境をつぶさに探索できる。木々に目を向け、鳥の声を聞き、香りを楽しめる。そうすることで今まで目に留めもしなかった、いろんなことに気づけるだろう。仲間と話したり、笑い合ったりもできる。
そういえば、自転車でなく自動車でなく、徒歩あるいは走りの速度で町を眺めることは、速度によってカットされ、忘れられてしまう風景を再発見する行為であるという話は、民俗学に通じるところがあるとふと思い出した。
柳田国男は新幹線に乗ることを嫌っていた。
なんの著作だったか忘れてしまったのでまた見つけたら書きたいのだけれど、「速度」と「景色」は大いに関係があるというのは、子どものころ走っても走っても自分の町から出ることができなかったのに、高校生になって電車に乗るとなんだか自分の生まれ育った町がちっぽけに思えたこととよく似ている。
歩かないと気付かない裏路地や、猫のたまり場。落ち葉の船が流れていく小川。
ガラスの破片が落ちている小道。変な絵が描いてあるマンホール。シーサーが置いてある門。ひときわ大きな鬼瓦の屋根。
不思議な景色は、歩く速度で発見することができる。
走り始めてから3か月。もうそろそろ合計で100㎞になる。体力がついてきて、景色を味わう余裕が出てきたのだろう。
愛着、というものを考えると、どれだけ知っているか、ということが大事だと思う。
好きな人のことも、自分だけしか知らない側面を知っていくことで、かけがえのない人になっていくと思う。
『星の王子様』のキツネはやはりいいことを言うな、とあらためて思うものである。
「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」
走ることは、町に時間を費やすということなのかもしれない。
なぜなら、こんなにも、かけがえのない町だという気持ちになってきたから。
参考文献