失敗してからやる気の出る人
モチベーションに頼らないほうがいい。習慣にしてしまったり、仕組みにしてしまったり、やると決めたからやると思考停止したりすればいい。
と常々思っていたのだけれど、とは言え、その「習慣にする」「仕組みにする」「やると決める」ためのやる気というレベルから考える必要があるのかもしれない、と思ってきた。
なんとなく、生まれたときから不景気で、終身雇用も無くなり、閉塞感があって、なんのために生きているのか分からないという感覚の、生きているから生きている人はかなりの数いるんじゃないだろうか。
頑張っても報われない、頑張っても褒められない。テストでいい点を取るとか受験に合格するとか、友達が増えるとか、恋人ができるとか、なんでもいいけど、なんのためにやってるんだ?という虚無感に襲われることってないだろうか。
褒め上手な先生に教えてもらうと「おー!すごいな!」「さすがだな!」と褒めてもらって、べつに最初はやる気はなかったのになんだかやる気が出てきて、それでうまいこといった経験がある人もまた少なくないだろうと思う。部活、スポーツ、習い事、塾。
「人は社会的な動物」を言い換えるならば「人は人のために頑張る生き物」とも言える。
人の役に立つから、人が喜んでくれるから、人に迷惑をかけたくないから、守りたい人がいるから。
一生独身でいる人だって、誰かのために頑張っている気持ちは少なからずあるのだと思う。あるいは、代替的に犬や猫のためかもしれないけれど、それもまた尊い姿だ。
そんなことを考えていたら、「意欲が出るきっかけは人によって違う」という趣旨の話を読んだ。
意欲が出るきっかけは人によって違う。「成功したらやる気が出る人」もいれば「適当にはじめて失敗してからやる気が出る人」もいるし「成長を実感したらやる気が出る人」もいる。
なるほど。これで言うなら僕は、適当にはじめて失敗してからやる気が出る人かもしれない。
なにかをはじめるとき、たとえば僕は昔ピアノを習っていて、音源を聞くと「なんだ簡単そうだな」と思い、弾いてみた時に「ウケる全然弾けない」とショックを受けて、練習を頑張る、というスタイルだった。
ウケる、とショックは共存しうる。
この場合、弾けないことは、自己肯定感に影響しない。
「理想の自分なら弾けるのに」と思っているのだと思う。
苫米地博士のコンフォートゾーンの書籍を読んでいたときに「タイガー・ウッズは理想の私ならこんなの決めてあたりまえ」と思っているから常にベスト以上の力を出せる、という趣旨のことを書いていたことを思い出す。
ぜんぜん違う話なのかもしれないけれど、イメージの中の自分はできるのに、やってみて、やれない自分に気づいて、やる気が出る。ということは僕の中では、パターンとしてあるなと思った。
受験勉強も「おかしいなもっと点数とれるのに」と思っていた時が一番勉強していた
茶道のお点前を美しくする稽古をしていたときも「おかしいな、もっと美しくできるはずなんだけど」と思っていた。
こう書くと、めちゃめちゃナルシストだな!と思うのだけれど、人に言ってるわけではないのでセーフにしてください。(ブログに書いた時点でアウトかもしれない)
つまり、イメージの中では完璧なのに(まだやってないがゆえの)やってみることで、できてない自分を発見してしまって、イメージに合わせていく、という感じて成長するパターンがあるな、と思った。
そういう意味で、頭の中だけで「やったつもり」になっている時が一番なにもしない。なぜならすでにイメージだけで満足しているから。
どうでしょうか。インターネットが発達した現代で、歌とか、サッカーとか、野球とか、上手な人の動画を見ただけでなんだか自分もできてるつもりになって、有識者のコメントを覚えて満足して、頑張ってやってる人に向かって(やったこともないのに)知ったようにアドバイスしてしまう、みたいな人いませんか?そんな自分はあなたの中にもいませんか?