Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

自分のことを好きじゃないと幸せにはなれないのだろうか?アンナ・カレーニナから知る。


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こんにちは、神崎です。

質問箱の質問に答えました。

 

自分のことって好きじゃないといけないんですかね?自分のことが好きじゃなくても幸せにはなれますよね?

 

「自分のことを好き」「幸せになる」ってよく考えるとむずかしいですよね。私も自分のことが好きかどうかわからないし、今が幸せかもわかりません。

 

しいて言うなら、「今の自分は結構好きだな」とか、「今日は幸せな日だったな」とか、「この人といる時の自分は好きだな」と思うことならあります。それくらいです。

 

質問箱にはこういう形で答えました。

 

 

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」はアンナ・カレーニナの有名な冒頭ですが、最近の風潮としてはむしろ「幸せの形はそれぞれである」というほうが共感する人が多いように思います。経済格差、セクシャルマイノリティ、個性の時代。

 

そういう意味では、自分が「これを幸せだ」と思えばよくて、どんな状況であれ誰にも「あなたは不幸せだ」などと言わせることはできないですね。 では、あなたにとって幸せとはなんですか?という問いかけがあり、時間の中に生きている人間にとって幸せとは一時的なものでしかない以上、死ぬまで幸せについて考えなくてはいけないという、やや苦しい仕組みになってきて、実は「幸せになる」なんて考えないほうが幸せでいるための大事なことだったりするかもしれないわけで。

 

「幸せとはなにか」を考えるとき、必ず考えることになるのが「愛」についてですね。人は社会的な生き物で、他社との関係の上に成り立っているので、幸せも他者との関係の中にあるのが自然だからです。 そして、「自分を好き(かどうか)」を、「自分を愛しているか(どうか)」に置き換えて考えてみると、自分を愛していることも大事なのですが、それ以上に人は「他人を愛しているか」が幸せと感じるには大事なようです。 他人と言っても、自分以外の人や動物や世界のことを指すのですが、愛というのはもらうよりも与えるほうが尊く、幸福感があるものです。

 

アンナ・カレーニナでも、対称的な二人の主人公と言われる貴族のリョーヴィンは、「愛は信じるという自らの行為の中にあり外から与えられるものではない」という態度で恋人のキティに向き合い、成就し、安定した幸せな家庭を築きますが、アンナ婦人は「愛は外から与えられるもの」として不倫の愛、乾きが癒やされない人生の後半、そして自殺という悲劇的な結末を迎えることになります。(これは、観客や読者から見れば悲劇ですがアンナ婦人からしたら幸せな最期だったのかもしれません。人は自分が心から欲することをするということと、自殺によって死後、不倫相手のヴロンスキーの心を自分だけに引き止めることに成功したので)

 

他人から「あの人は不幸だ」と言われても「自分は幸せだ」と思うことは自己中心的な世界観ではありますが、世間や社会の幸福像を手に入れようとも、それが自分の幸福であるとは限らないわけです。また、自分の幸福は自分にしかわからないですね。「あなたがこれをするのが幸せだって言ったからやったのに!」みたいな後悔というか他責は、言うのはいいですが、他人は自分の人生の責任はとってくれないので。

 

つまり、「自分の幸せは自分で決めましょう」という話でした。

 


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「自分の幸せは自分で決めましょう」といいますが、「自分の幸せを自分で探すことができる」って、いい時代に生まれたなと思います。現代の特権だとも思います。

 

生まれた時から人生が決められていた時代とか、自分の意志と関係なく死に向かわざるをえなかった時代とか、幾億ではすまない数の人たちの歴史があって、今、だれもが幸せってなんなんだろうかと考えられる時代になっているからです。

 

アンナ・カレーニナは1870年の貴族が主人公ですから、あるていど自分なりの人生について想いを馳せる余裕があったんだとは思いますが。

 

私は、自分が誰かになにかを捧げた時が幸福感を得るということに気づいたのですが、それがお茶でした。もしかしたら、お茶をふるまうことが幸福でなくなる時も来るのかもしれませんが、今はお茶を点てて、美味しいと言って飲んでもらえることが幸せだと思っています。


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