Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

【相談室】色弱だということが恥ずかしかった。

 


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こんにちは、神崎です。

 

何年なっても思い出してしまう恥ずかしかったことって、必要だから覚えているんでしょうか。

 

今までで一番恥ずかしかったことって?

 

一番ではないですが、色弱が判明した小学生の頃のことはよく思い出してしまいます。

 

 

小学生のとき、自分で選んだTシャツが、なんか渋い茶色だと思ってかっこいいとおもってたんですけど、先生に「なかなか見ない小豆色だね」って言われて、初めて自分が色弱(今だと程度にかかわらず色盲っていうんですかね)だということを知って、自分の見えてる世界の色って他の人とちがうんだって気づきました。

 

なんだか恥ずかしかったですね、その時は。普通じゃないっていう恥ずかしさでした。赤が弱いタイプの色弱です。それ以来、無意識なんですが色の話をほとんどしませんし、記憶の映像に色がついてません

 

だからなのか、茶道具も色鮮やかなものよりも、備前焼とか唐津焼きみたいな渋い色が好みです。細かい焼きの部分までは識別がつかないんだろうとおもうと、すこし悲しいと思うことがあります。



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小学生中学生の時、ノートをとるのに、赤と緑が見分けつかなかったので、非常に困りました。

 

友人と焼き肉に行っても「これ焼けてる?」と聞いてから食べてます。ウザいやつです。

 

 

色弱の中でも自分だけかもしれませんが、記憶に色がついてません。

 

「背が高くて眼鏡かけてた人の名前誰だっけ」

「赤色の服着てた人?」

「え、たぶん」

と言ってごまかしています。

 

 

【相談室】大学に行くのは人生において重要だと思いますか?意味はないと思いますか? に茶人が答えました


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こんにちは、神崎です

 

今回も質問箱の質問に答えました。この質問されてる方けっこういらっしゃるようだったので自動質問かもしれませんが、自分なりの人生と照らし合わせて答えてみました。

 

大学に行くのは人生において重要だと思いますか?意味はないと思いますか?

 

この質問をする立場の人は、大学に行く人生と大学に行かない人生のどちらかを選べる人ですね。

 

わたしは親のおかげで大学に行く人生を選ばせていただいたのですが、その立場から答えたいと思います。

 

 

「意味はあるのか」という問いに対しては、「できごとや選択した行動に意味を見つけるのは自分次第」なので、行くことにも意味はありますし、行かないことにも意味があります。

 

大学の価値というと一般的には「就職を有利にするため」の人もいれば「就職するまでのモラトリアム(猶予期間)」の人もいます。本来の目的とも言える「学びたいことがある」という人はあまり多くなかった印象があります。

 

統計的には大学を卒業している方が生涯年収が高くなる傾向にはあるようです。

 

私にとって、大学に行ったことは重要だったと言えます。 これは理由が3つあり、ひとつは大学受験の勉強で得たものと、大学時代に得たものと、大学卒業後に得たものが人生を変えたと思っているからです。

 

わたしは高校生の時まで、勉強をする意味がまったくわかりませんでした。正直に言えばなるべく早く死にたかった。できれば20歳くらいで死にたかった。遅かれ早かれ誰もが死ぬのだからなにをしても意味がないと思っていました。なにかを頑張るという気持ちになれずにいました。

 

高校生の頃はアニメが好きで時間があればアニメを見ていたんですが、高校二年生の夏にためしに早稲田大学オープンキャンパスに行ってみたら、漫画研究会の講演で白石涼子さんが来ていたんです。白石涼子さんは「ハヤテのごとく」の綾崎ハヤテくんとか、「まほらば」の白鳥くんとか、「夏のあらし」の小夜子ちゃんとかをやってて中性的な声がとても好きだったんですが「早稲田大学に入ると白石涼子さんを学園祭に呼べるのか!目指そう!」と思って大急ぎで勉強を始めました。このエピソードからも分かると思うんですが、わりと自分はマヌケなところがあるというか、ほぼマヌケな思考なんですが、とにかく受験勉強をしました。

 

自分は授業を受けるのが嫌いなことは分かっていたので、ほぼ自習で1年半の受験勉強をしました。テストを受けて自分の現在地を知り、ゴールまでの距離を測り、スケジュールを割り出し、試験でチェックする。

 

自分で立てた目標にむかって努力をすると自分の能力が上がっていくことが単純に嬉しく、また、それまで退屈だった勉強も分かることが増えていくと楽しいと思えるようになりました。

 

結果的には早稲田大学は落ち、成蹊大学の文学部に入学し、漫画研究会ではなく茶道部に入ったわけですが、受験期間自体がいい経験でした。

 

次に学生時代の話ですが、基本的に20歳くらいまでに死にたいという気持ちは変わっていなかったのですが、親より先に死ぬのは申し訳ないから親が生きている間分だけでも生きている理由が欲しいと思っていました。

 

茶道に打ち込んでみると、身体的な動きの美しさ、言葉づかいの丁寧さ、茶碗の知識、季節への意識、道具の合理的な配置と動かしかた、茶道具の選び方など、今まで気づきもしなかった世界を知ることができました。そしてそれは茶道の世界だけの特別なことではなく、日常的な世界も自分の見るフィルター次第で美しく見えるのだと知ることができました。

 

ここで重要なのはたしかに茶道と自分の出会いなのですが、茶道を通して関わり合う先輩や同期、後輩、他大学の茶道部員との交流があり、共通の興味関心について語り合ったり、熱くなったり、泣いたりしたこともよかったのだと思います。恥ずかしながら高校生までにそういった時期を過ごさなかったこともあるからです。

 

なにより自分が心を尽くしてととのえた茶を相手に捧げて「おいしい」と笑ってくれた時に自分はこの瞬間のために生まれてきたんじゃないかと思いました。

 

ここですこし俯瞰した見方をすると、大学生の間の時間はかなり自由度があるので自分で時間の使い方を選ぶことができます。それはある意味では無駄とも呼べるのですが、社会人として働いていると無駄な時間を取りづらくなります。自分はなにがしたいのか、なにが好きなのか、なにが嫌いなのか、考えることができます。無駄な時間は人生にとって大切です。

 

高校生の時と違うのは学問的な興味の幅が広がることだったり、日本全国から来て出会う人たちだったりします。そういった出会いの機会は、自分の人生の幅も広げてくれます。

 

そして大学卒業後には、自分の人生の選択肢が増えていたことに気づきました。新卒の就職活動はどうしても学歴で見られることが多いです。

 

そうした中で大学を卒業していることで選択肢として含められる業界や職種もあります。 また、日本の現行の就職活動だけが人生の道筋ではないこともわかりました。世界を見るといろんな生き方の人がいるのだから、自分もとらわれなくていいのだなあということです。

 

すみません、長い上にすこし飽きてきたので今回はこのへんまでにします。

 

最後に繰り返しになりますが、大学に行く人生も意味があるし、大学に行かない人生も意味があります。それは自分が自分の人生にどう意味を見つけるかです。

 

大学に行くほうが絶対にいいとは言えないですし、大学なんか行ってもしょうがないとも言えません。 自分は大学に行く人生をやらせてもらったので(親がお金を出してくれました。感謝しています)大学に行った人間としての話しかできませんが、自分なりに大学はよかったです。

 

無責任な言い方になりますが、他人なのでしかたないです。むしろ強めのアドバイスをする人にわたしは「なんの責任もないのによく平気で人の人生を変えようとしてくるなあ」と思ってしまいます。

 

以上です。
 

一気に書き上げたので後半がわかりづらくなってしまいましたが、何かをした人が、何かをしていない人の人生を、意味がないとか価値がないとか言うのは間違っているなあと思っています。

 

わたしはこう思っているとか、なるほどと思ったら、コメントや引用、よろしくお願いします。

【料理】ニンニクと鷹の爪の香りをうつしたオリーブオイルで何かを炒めるとそのなにかはめちゃめちゃ美味しくなる

 

こんにちは、神崎です。

 

1年くらい前から料理が趣味で、そんなにレパートリーは多くないんですが、それなりに楽しんでつくっています。


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富士フイルムXT-20 ss1/40 F3.6  ISO 400

 

 

オリーブオイルに、にんにくのみじん切りをいれて、低温でキツネ色になるまでじわじわと加熱し、手でちぎった赤唐辛子をいれると、辛いガーリックオイルができますね。

 

これはペペロンチーノをつくるときのオイルの作り方で、イタリア語でアーリオオーリオと言うそうです。

 

にんにくはみじん切りにする前に包丁で潰すと5倍くらい、香りに差があることに気づきました。潰したほうが絶対いいです。

 

このオイルはペペロンチーノをつくるとき意外にも優秀で、めちゃめちゃ役に立ってくれます。

 

例えばリゾット的な

 

 

これはペペロンチーノ

 

 

オリーブオイルじゃなくても、サラダ油で代用してガーリックチャーハンにもできます。

 

レタスのペペロンチーノ

 

リゾットを水ではなく牛乳で浸せばミルクリゾットですね。

 

 

オイルを吸わせたナスをグラタン皿にしいて市販のミートソースをかけて、チーズを載せて焼くと手作りでかんたんにナスのグラタン。

ナスってすごい油を吸うんですけど、こんなに美味しくなるならもっといっぱい吸ってほしい。

 

料理の楽しみ

もともとは全然料理に興味なくて、食べられればいいやくらいの、炊飯器で炊き込みご飯をして味噌汁をつくるくらいの食生活だったんですが、

 

お茶の葉っぱの研究をしている時に、つまり、様々な成分を含んだお茶の葉っぱから、どう旨味やカフェインやカテキンや香りを抽出するかという話なのですが、いろいろな温度や水の成分や圧力を加えて、変化を見ていて、あれ?これって料理に近いんじゃないか?と思ったときがありました。

 

茶葉というのも実は素材で、茶人(お茶を淹れる人)は料理人に相当するんじゃないかと。

 

素材を活かすも殺すも料理人次第ですから。

 

そこで、料理を始めたのがきっかけでした。

 

香りは温度が高くないと揮発しないから、水出し緑茶は香りがうすいし、ホールスパイスは炒めるときに香りが出るとか。

 

茶葉の旨味のグルタミン酸は、動物由来の旨味のイノシン酸と混ざるとうまいから、お茶漬けにするなら昆布出汁より鰹節の出汁だなとか。

 

 

あと、もともとお茶の成立を見ると、お茶とご飯ってセットなんですよ。

 

なぜなら、中国から日本にお茶が持ち込まれた時代、お茶は薬として飲まれていました。

 

今でも薬を飲む時は決まって食後ですが、お茶も食後に飲むものだったんですね。

 

食事をして、デザートを食べて、お茶を飲んで語り合う機会が増えました。

 

それが洗練されていった結果、懐石料理からの濃茶席、薄茶席という茶事の流れができたようです。

 

なので、お茶を飲む前に美味しいご飯を食べる。


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【相談室】お金とやりがいのどちらが大事なのか。貧乏生活経験者の答え。

こんにちは、神崎です。

 

質問箱に答えました。


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お金とやりがいどっちが大事でしょうか

 

バイトもそうかもしれませんが、学生を終えて社会人として働くことで社会に貢献しながら生きるステージに立ってから特に、お金とやりがいの天秤はふとした時に揺れたりして悩んでしまいますね。

 

お金があれば

高級車が買える、ブランドの服が買える、海外旅行に行ける、高級腕時計が買える。。。

しかし、そういった、お金で購入した物品が与えてくれる満足感から開放されつつあるのが今の時代を生きる私たちの価値観で、

 

どちらかというと自分らしい人生を生きたいとか、お金より影響力(フォロワー)が欲しいとか、お金ではない部分から得る満足感のほうが強い人たちが増えてきていますね。

 

わたしは大学生の時に茶道部に入って、茶道に出会い、お茶のおもしろさ(日本古来の美的感覚や思想、陶芸、飲み物としての茶そのもの)にのめり込んでしまい、茶人という働き方、ライフスタイルを選択してしまいました。

 

茶人を選択したといっても、教室を開いて先生をやるとか、そういう会社に入るとかではなく、フリーで茶を点てながら、お茶を学び、それを伝えるという役割を自分に与えたというかんじです。

 

とうぜん、収入がほとんどない時期がありました。ただやりがいはありました。

 

会社に入れば、少なくともお金は定期的にもらえるという前提があるので、やりがいはそれぞれだと思います。

 

わたしのように、お金がなくてやりがいはあるという生活をしていた立場から、答えさせていただきました。

 

お金があれば不幸を避けることができる。やりがいがあれば幸福感の中に生きることができる。 お金がないと生活が苦しい。やりがいがないと人生が息苦しい。

 

自分の場合は、大学卒業時点でお金よりも充実感を取る選択をしたのですが、後悔はありませんがお金が無くて苦しい時期はありました。これからもあると思います。

 

お金を稼ぐことにやりがいを感じられれば生きやすいと思うのですが、お金とやりがいを天秤にかける人は、たとえば人の笑顔を見るのが好きとか、直接的に貢献したいとか、自分の好きなこと(絵とか文章とか自己表現)で生活したいとか、ビジネスで言うと下流の方になる気がするので、どっちも取るにはやりがいを突き詰めてお金の天井を破っていくしかないですよね。

 

人生は一回ですが、人生の選択は一回ではないのでやりがいを追求したり、お金が欲しくなったらお金を取りに行ったりして、自分の中のバランスが取れるところを探していくのがいいんじゃないでしょうか。

 

一番言いたかったのは、人生は一回ですが、人生の選択は一回ではないという部分ですね。

 

一度選んで手にしたものを捨てるのは怖いことです。痛さがあります。しかし、これではないなと感じたら、選び直すことができます。

 

それこそ、選んだ人生によっては他人から「そんなことするなんて頭がおかしい」とか「ちゃんとした仕事やれ」とか、馬鹿にされたりするかもしれません。されました。

 

お金がないとできないこともたくさんあります。それどころか人並みの生活ができない時期もあります。でも、死ぬ時になって「べつの人生をやりたかったな」なんて思ったって遅いんですよ。やりたいことがあるなら、やりたいうちに。それも熱があるうちにやったほうが、きっと豊かです。

富士フイルムのXT−20を買いました。



こんにちは、神崎です。

ミラーレス一眼を買いました。

 

 

去年の秋から町をPRする仕事で、地域おこし協力隊をやっているのですが、ようやくかと思うくらいのタイミングで、富士フイルムのXT-20 を買いました。

 

けっこう前からカメラを買うことは検討していたんですが、モヤシ生活を2年くらい経験していた自分にとって、10万弱の買い物はかなり高額なので(ふつうの社会人にとっても高額ではあるが)熟考に熟考を重ねていました。

 

キャノンがいいか、ニコンがいいか。

レンズが多い方がいいとか、軽い方がいいとか。

オリンパスブルーがきれいとか。

 


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各方面に相談し、ネットの情報を少しずつ集めていった結果、富士フイルムに決定しました。


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まだ購入して1か月たっていないのですが、写真を見てみてください。

 

三重県鳥羽市


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駅前の広場。噴水。水を浴びせかけられるブロンズのイルカ。

 


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鳥羽湾から500メートル内側の茂みと山に侵食された船。海で泳ぐ夢を見る。

 


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祠に入れてもらって大事にされているお地蔵様

 


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鳥羽湾。静かな波のゆらめき。

 


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陰で伸びる名前の知らない植物。

 


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船が来そうな桟橋。

 

静岡県森町


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新緑の小國神社

 


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手水。涼しさが恋しくなる季節。

 


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御神木。生と死。

 


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青梅。梅シロップ作りたい。

 

今後に期待。

 

 

自分のことを好きじゃないと幸せにはなれないのだろうか?アンナ・カレーニナから知る。


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こんにちは、神崎です。

質問箱の質問に答えました。

 

自分のことって好きじゃないといけないんですかね?自分のことが好きじゃなくても幸せにはなれますよね?

 

「自分のことを好き」「幸せになる」ってよく考えるとむずかしいですよね。私も自分のことが好きかどうかわからないし、今が幸せかもわかりません。

 

しいて言うなら、「今の自分は結構好きだな」とか、「今日は幸せな日だったな」とか、「この人といる時の自分は好きだな」と思うことならあります。それくらいです。

 

質問箱にはこういう形で答えました。

 

 

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」はアンナ・カレーニナの有名な冒頭ですが、最近の風潮としてはむしろ「幸せの形はそれぞれである」というほうが共感する人が多いように思います。経済格差、セクシャルマイノリティ、個性の時代。

 

そういう意味では、自分が「これを幸せだ」と思えばよくて、どんな状況であれ誰にも「あなたは不幸せだ」などと言わせることはできないですね。 では、あなたにとって幸せとはなんですか?という問いかけがあり、時間の中に生きている人間にとって幸せとは一時的なものでしかない以上、死ぬまで幸せについて考えなくてはいけないという、やや苦しい仕組みになってきて、実は「幸せになる」なんて考えないほうが幸せでいるための大事なことだったりするかもしれないわけで。

 

「幸せとはなにか」を考えるとき、必ず考えることになるのが「愛」についてですね。人は社会的な生き物で、他社との関係の上に成り立っているので、幸せも他者との関係の中にあるのが自然だからです。 そして、「自分を好き(かどうか)」を、「自分を愛しているか(どうか)」に置き換えて考えてみると、自分を愛していることも大事なのですが、それ以上に人は「他人を愛しているか」が幸せと感じるには大事なようです。 他人と言っても、自分以外の人や動物や世界のことを指すのですが、愛というのはもらうよりも与えるほうが尊く、幸福感があるものです。

 

アンナ・カレーニナでも、対称的な二人の主人公と言われる貴族のリョーヴィンは、「愛は信じるという自らの行為の中にあり外から与えられるものではない」という態度で恋人のキティに向き合い、成就し、安定した幸せな家庭を築きますが、アンナ婦人は「愛は外から与えられるもの」として不倫の愛、乾きが癒やされない人生の後半、そして自殺という悲劇的な結末を迎えることになります。(これは、観客や読者から見れば悲劇ですがアンナ婦人からしたら幸せな最期だったのかもしれません。人は自分が心から欲することをするということと、自殺によって死後、不倫相手のヴロンスキーの心を自分だけに引き止めることに成功したので)

 

他人から「あの人は不幸だ」と言われても「自分は幸せだ」と思うことは自己中心的な世界観ではありますが、世間や社会の幸福像を手に入れようとも、それが自分の幸福であるとは限らないわけです。また、自分の幸福は自分にしかわからないですね。「あなたがこれをするのが幸せだって言ったからやったのに!」みたいな後悔というか他責は、言うのはいいですが、他人は自分の人生の責任はとってくれないので。

 

つまり、「自分の幸せは自分で決めましょう」という話でした。

 


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「自分の幸せは自分で決めましょう」といいますが、「自分の幸せを自分で探すことができる」って、いい時代に生まれたなと思います。現代の特権だとも思います。

 

生まれた時から人生が決められていた時代とか、自分の意志と関係なく死に向かわざるをえなかった時代とか、幾億ではすまない数の人たちの歴史があって、今、だれもが幸せってなんなんだろうかと考えられる時代になっているからです。

 

アンナ・カレーニナは1870年の貴族が主人公ですから、あるていど自分なりの人生について想いを馳せる余裕があったんだとは思いますが。

 

私は、自分が誰かになにかを捧げた時が幸福感を得るということに気づいたのですが、それがお茶でした。もしかしたら、お茶をふるまうことが幸福でなくなる時も来るのかもしれませんが、今はお茶を点てて、美味しいと言って飲んでもらえることが幸せだと思っています。


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自分の欠点はどこなのか?に悩んだら


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こんにちは、神崎です。

ツイッターに相談箱を設置していまして、想像していた以上に質問してくれて、考える機会になり、ありがたいなーと思っています。

 

自分の欠点はどこだと思いますか

 

 

欠点というと、就職活動の時の自己分析を思い出しますね。

いろんな関係性の友人、知人に長所や短所、自分のイメージを聞きました、懐かしいです。

 

質問への回答にはこういう内容で答えさせていただきました。 

 

欠点や長所って、絶対的なものではなく相対的なものなんですよね。自分が持つ何かしらの性質が、誰かといるときや、何かをしようとした時に欠点になったり、長所になったりします。 自分は性質や能力がかなり凸凹で不安定なので欠点になる要素はけっこうあります。

 

自分一人が、自分一人でいた時に、絶対必ずいつもダメなところがあるのかというと、そういうことはないわけです。

すべての短所は長所として言い換えられるんだと自己分析の本に書いていなかったでしょうか。

自己中心的はマイペースと言い換えるとか、怒りっぽいは感情が熱しやすいとか。

言い換えでなくとも、小心者で他人の顔色をうかがいがちなことがコンプレックスな人からすれば、自己中心的な人でも自分の意見がしっかりあってカッコよく見えたり、自己中心的なことがコンプレックスな人からすれば、他人の顔色をうかがう人も、社交性、社会性に優れた人として見ることができるでしょう。

 

どこに出しても完全に欠点になる性質というのはないんですよね。

 

そういう意味で、自分がどういう環境で、なにを目指していて、もしくはどういう状況を幸福として認知していて、なにを欲していて、どんな人たちと関わりあって生きているのかが、欠点を考える時には大事になってきますね。

 

自分の場合はよく言えばのびのびと、悪く言えばわがままに人生をやってきてしまったおかげで、多くの人が身に着けてきた能力や、矯正してきた態度などがそのままになっているのだと感じています。

 

私の好きな小説の一説に

三つ子の魂百までと言うのに当年とって二十と一つ、やがてこの世に生をうけて四半世紀なんなんとする立派な青年がいまさら己の人格を変貌させようとむくつけき努力を重ねたところで何となろう。すでにこちこちになって虚空に屹立している人格を無理にねじ曲げようとすれば、ぽっきり折れるのが関の山だ。

とあり、当時、ちょうど二十と一つだった私としては全くその通りだとうなずいたもので、社会でやっていくために社会から必要とされている能力、態度、人格を矯正するのはあきらめることにしたのもその時でした。

 

ただ、あるコミュニティでは短所とみなされることも、別のコミュニティでは長所になりうるというのに気付いたのはこの文章を読んでだいぶ経ってからでした。

 

具体的に自分の短所を発表せずに申し訳ない気持ちはありますが、今のところは自分の短所と向き合うことで、むしろ自分に適合した状況に身を置くことができているのではないかと思います。

 

最後に

もし、人より劣っているとか、馬鹿にされることが多いとかで悩んでいる人にアドバイスをするのなら 、自分がそのコミュニティで、劣っていると思う部分、人に馬鹿にされる部分を、具体的に認識してみることで、その短所が活きるフィールドを探すと生きやすくなるでしょう、ということです。