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日記ということにします。しばらくは。

『DETH 死とは何か』は「生きるとはなにか」を考えさせてくれる

いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。

論語より



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寿命が40年か50年で終わる時代は「死とはなにか」なんて考える間もなく、人生が終わっていたのだろうと思います。だからこそ「死」なんてことを考えている暇があれば今日を生きなさい、というメッセージが「宗教」などの教えにはあったのかもしれません。死後の世界があるから大丈夫だよ、魂は輪廻転生するから大丈夫だよ、夜になにが不安なのかもわからずに泣いて眠れない子どもの歌う子守歌のように、なんとなく今日を安心させればよかったのが今までの時代なのだという見方もあるでしょう。

食料の生産力も高まり、医療技術も発達して、昔の時代なら死んでいた人たちが、現代は生かされています。寿命も100年に到達しようとしています。まだ「生きること」もよくわかっていないのに、「死ぬこと」を考えている暇などないという教えを思い出しましたが、現代は「死」から目を背けるには、あまりに長く生き過ぎる時代になってしまったと思います。

この本は、そんな目を背けてしまいがちな「死とは何か」に対して様々な角度や視点から問いを立て、仮説を導き、検証していく、極めて「理系的思考」な本です。

本の中身については著者自身が第一講で述べていますが、一般的な死に対しての価値観を整理し、それに対しての問題提起を行い、著者の持論とその持論を補強する根拠を「宗教」を抜きにして語ったものです。

ここに書かれている一般的な「死」についての見解とは
・私たちには魂がある(すくなくともあってほしいと思っている)
・魂があれば死後も存在する可能性が残っている。そして私たちはそういう意味でも不死をよいものと思っている。
・死は恐ろしく、生は素晴らしいものだとすれば。命を捨てるのは不合理である。自殺は悪いことである。
以上のようなものであるとしています。

そして、著者は「死」に対して以下のような立場を取ると明言しています。



さて、これから私が本書で何をするかと言えば、それはそうした見方は最初から最後までほぼ完全に間違っていると主張することだ。
私は魂が存在しないことを皆さんに納得してもらおうとする。
不死はいいものではないことを皆さんに納得してもらおうとする。そして、死を恐れるのは、じつは死に対する適切な反応ではないことや、死は特別謎めいてはいないこと。自殺は特定の状況下では合理的にも道徳的にも正当化しうるかもしれないこと。
(省略)
本書を読み終えるころには、これらの点についてみなさんが私に賛同してくれていることを願っている。何と言おうと、私は自分がこれから擁護する見方が正しいと思っているから、それが正しいと皆さんも信じるようになってもらえればと心から願っている。

だが本当は、肝心なのはみなさんがけっきょく私に同意してくれることではないとも言っておくべきだろう。大切なのは、みなさんがみずから考えることだ。

(『DETH 死とは何か』 本文より引用)

本書では、「死」について著者の持論を講義するにあたって、様々な仮説と、その仮説に対しての検証を重ねていく中で、死の本質について考え始めたときに沸き起こってくる哲学的な疑問の数々を検討しています。おおまかに分けると四つになります。

1、私たちは何者なのか
私たちには魂はあるのか。身体が消滅した後も生き続ける非物質的な魂があるか。もし魂がないならどんな意味があるか。人間は死んだらどうなるのか。

2、私たちが死後も存在し続けるためには何が必要なのか
これは、そもそも存在し続けるとはどういうことなのか。明日ここでキーボードをたたいている人物と、今文章を入力している人物は完全に同一の人物であるとはどういうことだろうか。

3、死が本当に一巻の終わりならば、死は現に、悪いものなのだろうか
死んでしまった私にとって、死が悪いものであるとはどういうことだろうか。死に関して、何が悪くて、何が良いのだろうか。死が本当に悪いものなら不死は良いものなのだろうか。
さらには、私の生き方はやがて死ぬという事実にどのような影響を受けてしかるべきなのか。やがて死ぬという運命に対して、どのような態度をとるべきなのか。死を恐れるべきなのか。やがて死ぬという事実に絶望するべきなのか。

4、命は貴重で価値のあるものであり、たった一度しか与えられていないのだから、決して自殺は理にかなわないと私たちの多くは考えている。はたしてそうだろうか。自殺の合理性と道徳性について。


一種の思考実験として、倫理学的に社会や宗教で多くの支持を集めているとされる「死」に対する考え方についての分析といった内容で、既存の「死」についての本と比較して、そういう意味で異質な「死」に関する本であると思います。

それぞれの問いへの結論は基本的にケースバイケースなので明確な答えは用意されていませんが、冗長なくらい網羅的に検討されています。

私自身は幼少期に実母の死に際しているので、「死とはなにか」に向き合う時間があったこともあり、著者ほど突き詰めてないにしても少なからず自分なりに考え、結論づけてきたことも多かったのですが、あらゆる問いへの思考が綴られていることには納得することや反論的なことも含めておもしろく読むことができました。

西洋のことはあまりわかりませんが、日本は特に「お通夜」と「葬式」以外では法要として死に向き合うことはありますが、それもお酒を飲んでご飯を食べて、「故人のことはたまにこうして思い出しながらも、生きている人間は前向きに生きていこう」という乗り越え方が多いのかなと思います。

20歳も超えてくれば、祖父や祖母、伯父伯母、親しい友人やその家族など、身近なところで「死」に直面する機会はほぼ必ずと言っていいほどあると思いますが、それでも、「死」はナイーブでアンタッチャブルなものとして、触れずにおこうという人は多いのではないでしょうか。または、あなたは「死」について誰かと話そうとしても避けられてしまうことが多いのではないでしょうか。

誰もが当事者であるのに、このように「死」という現象について真正面から向き合う機会もなかなか無いのが現実です。

「死」についての結論はなく、それぞれの立場でそれぞれが考えること、として終始語られていますが、では私たちは、「どう生きればいい」のでしょうか。それについては以下のようにも述べています。

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いずれ死ぬのだとしたら、どう生きるべきなのか。自然に頭に浮かぶことのひとつは、あまり時間がないのだからできる限り多くを人生に詰め込むべきだというものだ。できる間に、なるべく多くを詰め込むのだ。
それはごくありふれた考え方だが、それを実践するには少なくとも二つのおおまかな戦略があると思う。
その第一は、志があまりにも野心的だと失敗するという危険性を強調する戦略だ。この戦略は、野心的になる代わりに、達成することが事実上保証されている種類の目標を目指すことを勧める。食べ物や交際、セックスの喜びを目指すように言う。
「食べ、飲み、愉快にやれ、明日には死ぬかもしれないのだから」これが第一の戦略だ
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第二の戦略は、第一の戦略はけっこうなことだ、というのが前提だ。もしそれが目指したいものならば、たしかに成功する確率は非常に高いから。とはいえ第一の戦略の問題は、確実なものしか望まなければ、達成できるのは小さいことや些細なことばかりになってしまう点だ。そこで第二の戦略は人生におけるいいことのうちでも際立って価値の高いものにも目を向ける。
みなさんは小説を書いたり、交響曲を作曲したり、あるいは、結婚して家庭を築いたりしたいかもしれない。こうしたことは、成功は保証されていないが、人生が私たちに提供しうることのうちでもとりわけ価値がある。第一の戦略だけで生きていく人生よりも、より大きくて確実には得られないいいことで満たされた人生には価値がある。
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第三の戦略は

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大小の良いことを適切に取り混ぜることを目指す、というものだ。
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死についての深い考察の一方で、生きていくことに関しては平凡なところに落ち着いているような気もしますが、「死」と向き合った上で選ぶ「生」はまた違う景色になるようにも思います。

人生というものが一枚の絵であるならば、死というものは額縁だ、と言った哲学者であり教師をしている年の離れた友人がいるのですが、その言葉を聞いたときハッとしました。その話はそれ以上聞くことができなかったのですが、自分なりに考えると、生き方とは終わり方も含めたものなのだという意味だったのかなと考えることがあります。

高齢化社会に向かっていくにあたって、病気の可能性や余命を遺伝子検査で統計的に予測できる時代に入りつつあったり、臓器移植、植物状態脳死、延命措置、尊厳死安楽死、自殺、リビングウィル、老前整理、終活など、死に関連した話はますます身近になってきます。

社会が成熟していくにつれて、それぞれが人生をどう生き、どう終えるのかを考えることが若いころからあたりまえになる時代もやってくることが予想されます。

誰もがいつかのタイミングで必ず向き合わなければならない「死」ですが、この本は大きな助けになってくれると思いました。

気になった方はぜひ読んでみてください。