Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

瞑想はとにかくやったほうがいい。やった結果良かったし、お釈迦様もいいって言ってる。


今日は瞑想の話をします。瞑想の話は大好きで、すこし熱がこもってしまいます。思い出を振り返りながらの独白形式になりますがご容赦ください。

瞑想はいいですよ、よかったですよ、みんなやろうね、というだけの話ですが。


大学生の時の茶道部の人間関係が当時の自分にとってはストレスで、今となっては淡い思い出になっているものの、生き返りの電車の中でなぜかウルフルズのガッツだぜとか、中島みゆきのファイトを聞いて、涙を流していた。なにか突発的な感情の動きがあったわけでもなく、たんに涙があふれて止まらなかった。

ああ、自分は人と付き合っていく能力があまりにも低いのだ。と、それまでは曖昧に自虐的に言っていたジョークのような「社会不適合者」が現実的な重い、ジョークですませられないものだったのだと確信を持ったのだった。

お茶の水飯田橋のあたりを中央線に乗り、川を眺めていて、このまま生きていくにはあまりにもつらすぎる。と思ったのがきっかけで、どうしたものかと、いろいろ調べて実践し始めたのがそのころだった。

茶道の合宿ということで、春には禅寺に行っていたので、掃除、般若心経、座禅など、禅的な生活について数日間だけ体験的に教えを受けていたため、ここにヒントがあるのではないかと思った。

最初は般若心経を暗唱できるようにした。

ひろさちや先生の般若心経入門を読んだり、にちゃんねるの般若心経の現代語訳がかっけえというスレを読んだ。


超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?

誰でも幸せに生きる方法のヒントだ。もっと力を抜いて楽になるんだ。苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。

この世は空しいモンだ、痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。この世は変わり行くモンだ。苦を楽に変える事だって出来る。

汚れることもありゃ背負い込む事だってある。だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?

苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。見えてるものにこだわるな。聞こえるものにしがみつくな。

味や香りなんて人それぞれだろ?何のアテにもなりゃしない。

揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。それが『無』ってやつさ。生きてりゃ色々あるさ。辛いモノを見ないようにするのは難しい。でも、そんなもんその場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねぇ。無理して照らそうとしなくていいのさ。見えない事を愉しめばいいだろ。それが生きてる実感ってヤツなんだよ。

正しく生きるのは確かに難しいかもな。でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。愉しんで生きる菩薩になれよ。全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな、適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

勘違いするなよ。非情になれって言ってるんじゃねえ。夢や空想や慈悲の心を忘れるな、それができりゃ涅槃はどこにだってある。

生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。この般若を覚えとけ。短い言葉だ。

意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。

嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。

今までの前置きは全部忘れても良いぜ。でも、これだけは覚えとけ。

気が向いたら呟いてみろ。心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。

いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?

『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』

心配すんな。大丈夫だ。

知りてえーーーーーーーーーー

知りたいでしょ。超すげえ楽になれる方法、と思って頑張って毎日朝と夜に音読していた。影響されやすい男だから。ところが、全然なんともない、途中から「ぜんぜん効かないじゃないか」なんて疑う気持ちも出てきたもんだから、なおさらダメ。信じるものは救われる。信じてないなら救われない。

幸か不幸か、自分のところは宗教的な組織に所属しているわけではないので、般若心経はやめた。救われないならやらん。

そして次に始めたのが瞑想だった。

いろいろな瞑想もあるけど、呼吸瞑想が一番自分に合っている気がして、毎日やっていた。呼吸を吐いて、吸うだけ。30分くらい。

1週間くらいで、なんだかすっと楽になった気がした。気がしただけでも十分だった。それから頻繁に、軽くても1,2分は毎日やるようにしていた。

ていうか、茶道って瞑想だな。と思ったのもその時だった。物を動かす指先に集中するのって、瞑想である。意識してやっているか意識しないでやっているかで、瞑想的なものの効果は変わるのかもしれないけれど、いいものにめぐり合えていたんだな、と思った。

それから6年ほどがたった今でも、瞑想は続けている。

『仏教と脳科学』 有田秀穂 アルボモッレ・スマナサーラ共著 は科学的に仏教と瞑想をむすびつけた対談がされていて非常に勉強になるので、瞑想や座禅に興味がある人、あるいは鬱やストレスについて悩んでいる人もぜひご一読いただきたい。




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今までは、瞑想が脳にいいというのは、脳に電極を刺して反応を見るしかなかったのでできなかったが、ここ20年ほどは、画像解析で脳の反応を見ることができるようになったらしく、科学的に瞑想の効果を研究しているらしい。マインドフルネスが流行りだしたのも、そうして論文やデータが出るようになったからだろう。

書籍によると

これまで得られている坐禅関連のデータは以下のとおりである。坐禅の呼吸法を行うと、脳波に特別な!(アルファ)波が現れて、大脳皮質の活動が鎮静し、心理的には緊張・不安、抑うつ、敵意などのネガティブな気分が改善し、元気な心の状態が現れる。また、一番化・発達した脳部位)が活発に活動し、意欲、集中力、直感力が上昇する。このような変化が起こるのは、脳内のセロトニン神経の活性化に依る、というエビデンスを明らかにし、「坐禅セロトニン仮説」として体系化してきている。

(『仏教と脳科学』本文より引用)

とある。もうデータで出ているらしい。

データに出ていなくても、お釈迦様が滝行や苦行、お経、勉強など様々やった結果「結果的に座禅がいいぞ」と言っていたらしいとほかの本で読んだことがあるので、座禅はいいのだと思うのだけれど、こうしてデータになっているというのは素晴らしい。

瞑想のことを宗教だと思っている人も未だにいるんじゃないかと思う。

全然、宗教的なことは関係なく瞑想を7年ほど続けてきて思うけど、瞑想は絶対にやったほうがいい。自分を俯瞰的に見ることができるようになるし、驚きや悲しみや怒りという感情からも遠のくことができる。

お茶という仕事柄、心を病んでしまった人、病んでしまいがちな人と多く接する機会があるけれど、とにかく瞑想はおすすめしている。

お茶を待っている間でもいいし、縁側に座ってでもいいし、なんなら電車に座っている間だけでもいいから。

いいのは知ってるけど、めんどくさくてやらないと言っている人もいる。あの、本当に湯船みたいなもんですよ。お風呂に入る前は少し面倒だけど、入ったら絶対すっきりするんですよ。

根拠を調べないと気が済まない人は、いろいろ本を読んだほうがいいし、このブログを読んで、ちょっとやってみようかな、と思った人はすぐにやってみてください。

もちろん、瞑想だけすればいいなんてことはなく、瞑想はマストで、心が安定するので仕事をおだやかにすることができたり、人間関係で必要以上に悩まなくなったりして、行動がしやすくなるということです。

うまい例えだなーと思ったのが、

瞑想って、スマホのバックグラウンドで起動してるアプリを削除していくみたいなものなんだよ。

バックグラウンド(無意識)でいろんなことを常に思考してるからバッテリーを食いすぎたり、動作が遅くなったりする。

というの。分かりやすいです。頭の中の掃除。

私は、万人におすすめできるものなどほとんどないなと思っているけど、瞑想だけは人類全員におすすめしたい。そういう気持ちです。瞑想は無料だし。