Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

やりたいことをやる、それだけでいい。

かっこいいと思った人たちを思い浮かべてみると「いつ寝ているんだろう」と思うくらいに忙しくしている。


「寝ている」のはそばで見ていて分かるのだけれど、倒れないでいるのが不思議なくらい働いている。


「働いている」というのも「働かされている」のではなく、好きなことや自分で決めたことを主体的に行っていて「楽しくて学びがあり人の役にも立ってお金を稼ぐこと」で日々が埋め尽くされているのが素敵だ。


「働学遊」の融合を意識して働く、ということをリンクアンドモチベーションの小笹さんが提唱していて、素晴らしい考え方だと思ったのはもう5年も前で、ぜひすべての人に知ってもらって、実践してもらえたらいい、なんてその時は思ったりもしたのだけれど、その境地には一般的な努力では到達できない、という現実も体感しつつある。


「働学遊」を融合するに至るまでにはエネルギーや体力、あるいは気力、とにかくなんと呼んでもいいのだけれど「動きまわるための原動力」が本当は何よりも重要だと感じている。


今、いろいろとお世話になっているお茶屋の社長は、工場もまわして、接客もして、在庫管理もやって、かき氷も作って、カフェのDIYも携わって、異業種交流会にも顔を出して、子供の保育園の送り迎えもしている。


「寝れてるんですか」と聞けば「工場を動かしちゃうと寝れないよねえ」と答えが返ってきて、タフさが極まりない。


野望があるから、と笑って言うその姿は輝いている。


社長とは対等に話しているけれど、自分を振り返ってみると「対等に話すだけの努力をしているんだろうか」と恥ずかしくもあり、悔しくもある。


今までは、長所を生かして適度に生きていく、と考えていた。それがベストだと思っていたし、なんとなくできていた。


とは言え、期待してくれた人を面倒くささで追い払ってしまったり、結果的に期待を裏切ってしまったり、そういう苦い経験が増えてくると、もっと期待に応えられる自分になりたい、と思うようになってきた。


「やりたいことをやればいいんじゃない」と、常に言われるし「やりたくないことはやらなくていい」と言われる。そう思うし、実際にそうしてきた。


役に立つことばかり意識しなくても、社会に居場所はつくることができるのは間違いない。


人はいつか役に立てなくなる。年老いた時、手足を失った時、言葉を失った時。なんらかの自分の価値であったものを失った時、人は人の役に立てなくなる。


役に立てなくても存在していい。それは現代の目指すべき社会だ。


役に立たないものを間引いていく時代は近代を迎えると同時に終わった。


とは言え「役に立ちたい」という根源的な欲求は人間に存在しているのだろう。だからこそ働きたくなるし、ボランティアをしたくなる。身の回りの人を助けたくなるし、アドバイスをしたくなる。


「役に立たせて欲しい」という需要すらある。社会に貢献していない感覚は自己肯定感の不在につながり、存在意義を剥奪するにも至る。


役に立てなくてもいい、けど、役に立ったほうがいい

役に立ちたい、けど、役に立てなくてもいい、

役に立てなくてもいいけど、役に立てるように努力したほうがいい


綺麗事かもしれないけれどやはり、「役に立つ」が「価値」に直結する社会は厳しい。


自由選択できるほうが優しい。


エネルギッシュに動く人を見て、自分もエネルギッシュに動きたいと願い、動いてみる、というのもいい。とてもいいものだ。