Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

ブログの文章を書く時の目標は「本数」と「文字数」と「書きたい理想の文章に近づく」にしたほうがいい

「すくなくともそうであってほしい」というだけの自意識かもしれないけれど。

読むほうは目が肥えてしまったので、いい文章とか悪い文章とかはわかるのに、書くほうは努力を怠ってきたせいでいい文章はほとんど出てこないで、書きあがった文章を見て自分の「読むほうの目」が、「あんまりいい文章じゃないな」と言ってくる。くやしい、こいつを満足させる文章を書いてやりたい、と思うけれど、書いた文字数に比べて、読んだ文字数のほうが圧倒的に多いので、追いつくまでには当分の時間がかかりそうだ、待っててくれ相棒、という気持ちである。

いい文章を書けるようになるための目標設定は必要なのか、と思っている。いちおう、本数は一日日本は書くというように決めてみたし、書きたい雰囲気の文章を選ぶということもある。

ところで、Twitterにたらればさんという人がいて、編集者をされていて、万葉集とか枕草子のことをエモく紹介してバズっていらっしゃる。その人がたまに漏らす「文章論」が好きで、納得させられることが多いのだけれど、自分が文章を書いている最中に出会ってしまうと、意外とダメージがある。他人事でないので。


昨日まで「勢いだけで書いて途中で自分の浅い(あまり掘り下げていない)自意識にくじけて根本がフラフラな文章」しか書けない人が、今日になって「何か」を掴んで、突然面白くてぐいぐい読ませる文章を書けるようになった…という事例は、残念だけど見たことがない(どこかにあるかもしれないが)。

ただ、「そういう文章」を毎日書いて毎日誰かに見せていた人が、「まだまだだなぁ…」、「ちょっとよくなってきたけど、まだ固くて素人っぽい」と(偉そうに)読んでいて、気づくと(慣れと先入観があるので気づくのが遅れる)「え…これ、すごくわくわくする文章だ…」と驚いたことは、何度もある。

文章がうまくなりたいのであれば、たくさん読んで、たくさん書くしかない。面白い体験や構文のコツ、惹かれるフレーズ集みたいなものはないのか、と言われれば、あるにはある。けれどそれはあくまで「調味料」のようなものでしかなく、素材に地力がないとスタートラインにも立てない。

それはたとえばイラストやピアノの演奏に似ていて、「こうなりたい」と思う目標を見つけてひたすら近づく練習を重ねるしかないのだと思う(この努力を仕組み化する工夫は大事だ)。何年たってもそう思う。

「そういう文章」の人だ、自分は、と、ダメージを受けた。

思考も浅すぎる、言葉選びも陳腐過ぎる、どうにか明日はもうすこしマシな文章が書けるように、と思いながら眠りについている。

でも、うまくなりたいのならたくさん読んで、たくさん書くしかない、という言葉には救われる。なぜなら、たくさん読んで、たくさん書けばうまくなれるというのだから。たくさん読んで、たくさん書いた人の文章がうまくなったのを目の当たりにした人が言っているのだから間違いない。

やはり、分母を増やしていくことは大事なのだ。

今月はだいたい15万文字くらいは書いた。15万文字も書けば、いい言葉がいくつか紛れ込んでいると思う。構成も意識できるようになってくるはずだ。

質より量か量より質かという論争も、量をやりながら質を意識するのが正しい、と決着がついていたはずである。量をこなさないと技術として身につかないし、技術がないうちに良質なものにはならない。

量をこなすうちに、新しい技術を身につけることができたり、今の技術を磨くこともできる。

そういう意味では、やはりブログを書くことの目標も「本数」と「文字数」と「書けるようになりたい雰囲気の文章」の三つ立てていくべきなんじゃないだろうか。