「書く」ことで変わったもの
さいきん、自分で「書く」ということはとても大切なことだったのではないか、と思うようになった。
「書く」ことでしかあらわれない世界がある。
自分という人間が、どのようなフィルターを通して世界を見ているかを記録すること。そしてそのフィルターの色彩や粒度がどのように変わっていくかを感じながら生きること。書いていくことの中に移り変わりがあらわれることに気づいた。そして、そういった移り変わりを、もう出会うことのない過去の自分として、保存していきたい、と思うようになった。
拙くても、今しか書けないことがある。今いちばん燃えあがっている熱量がある。今を過ぎてしまうと色褪せていくかもしれない感性がある。
そういうことに気づきはじめてきた。
まだまだ「感性」などという言葉におさめるほどの文章を書けているとは思えないけれど、確実に、一歩一歩、なにかに近づいている。
自分はこうして世界を見ているのだ、と、文章で伝えられる自分になりたい、と思うようになってきた。
歩いた町の地面の感触を、足元から聞こえる虫の鳴き声を、通り抜ける風の心地よさを、見上げた空のはるかさを。
香った茶の心地よさを。飲んだお茶の清涼な味を。
自分が経験したことの楽しさを。読んだ本の驚きや悲しみ、そして発見を。
伝えられない自分と向き合うことで、もっと、伝えられる自分になりたい欲が出てきた。
あえて言葉にしなくてもいいんじゃないか、なんて考えていた時の自分が、すこし恥ずかしい。それくらいには、今、文章が好きだ。そして、もっとうまくなりたい。
映画や、音楽のレビューも書いてみたいし、食べ物のおいしさや、レシピも書いてみたい。
今抱いた感想は、1年後にはまた違う気持ちになっているかもしれない。
人の家で食べさせてもらったおいしい名前の知らない食べ物のつくり方とかだって。
もう二度と食べられないかもしれないけれど、たしかにまぎれもなく、食べたことを、誰が読まなくても、保存しておきたい。感動を。
文章の上手な人たちが、すでにたくさん書いているのだから、自分なんか、書かなくても世界は何も変わらない、と思っていたけれど、確実に、自分は変わった。自分という人間の見る世界だって、日々の移ろいと同時に、変わっていたのだった。それに気づかせてもらった。