Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

近内悠太著『世界は贈与でできている』を読んだ感想。

限界費用ゼロ社会』が指摘しているように、新しいテクノロジーが勢いよく生産性を向上させ、財やサービスのコストを削減し、財やサービスを生み出すのに必要な人間の労働力を劇的に減らしていった先にあるものは、生産コストほぼゼロの世界だと考えられています。

資本主義の経済理論の指針となるこうした前提を、その論理的帰結まで突き詰めたとしよう。こんな 筋書きを想像してほしい。資本主義体制の稼働ロジックが、あらゆる人の想像を絶するまでの成功を収め、この競争過程の結果としてこれ以上ないというほどの「 極限生産性」に、そして経済学者が「 最適一般福祉」と呼ぶものに至るとする。それは、資本主義経済の最終段階において、熾烈な競争によって無駄を極限まで削ぎ落とすテクノロジーの導入が強いられ、生産性を最適状態まで押し上げ、「限界費用」、すなわち財を一単位追加で生産したりサービスを一ユニット増やしたりするのに かかる費用がほぼゼロに近づくことを意味する。言い換えれば、財やサービスの生産量を一ユニット増加させるコストが(固定費を別にすれば)実質的にゼロになり、その製品やサービスがほとんど無料になるということだ。仮にそんな事態に至れば、資本主義の命脈とも言える利益が枯渇する。

(ジェレミー・リフキン.『限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』本文より)

そのゆくえに、あらたな経済体制として現れてくるのが共有型経済、つまりシェアリングエコノミー。

資本主義は今跡継ぎを生み出しつつ あるそれは協働型コモンズで展開される、共有型経済だ。共有型経済は一九世紀初期に資本主義と社会主義が出現して以来、初めてこの世に登場する新しい 経済体制であり、したがって、これは瞠目すべき歴史上の出来事と言える。協働型コモンズは、所得格差を大幅に縮める可能性を提供し、グローバル 経済を民主化し、より生態系に優しい形で持続可能な社会を生み出しすでに私たちの経済生活のあり方を変え始めている。


(ジェレミー・リフキン著『限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』)

ジェレミー・リフキン氏によると、その限界費用ゼロ社会を迎えることを予見させる事象は、「どこでも採取でき追加費用のかからない、限界費用ゼロの太陽光発電風力発電などの再生可能エネルギーの普及」「3Dプリンターの急速な普及」「プリンター価格の急速な低下と、機能の急速な向上」であると述べる。もちろん、インターネットが前提である。

そこで私たちが考えなければならないのは、これまでは会社に所属し、労働を提供し、給料を得て、消費してきたが、資本主義の縮小により労働の機会が限られるとすると、どのような社会との関りかたをすればいいのか、という点です。

近内悠太著『世界は贈与でできている』は、そんな「資本主義の次の社会」を考えさせてくれる本であると思います。



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なぜ私たちは人間関係を結ぶのか

近内氏は「なぜ僕ら人間は他者と協力し合い、助け合うのか」「どうして1人では生きていけなくなったのか」という問いに対して、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を引用しています。

簡単に言えば、ヒト(ホモ・サピエンス)は、大きな脳を獲得しつつ、四足歩行ではなく直立歩行を選んだがゆえに、腰回りの骨盤を細める必要があり、頭が大きくなる前、自力で食べ物を獲得できない「未熟な状態」で生まれてくるようになった。

出産後、未熟な幼児を抱えた母親は、自力で食べ物を採集することができないため、子育てを周囲の人間に手助けしてもらうことが必要になってきたことで「強い社会的絆を結べる者」が生き残っていくという社会のありかたが生まれていった。

つまり、人間は生まれた瞬間から「他者からの贈与」を必要とし、「他者への贈与」をおこなうという相互関係を前提として生きていくことを運命づけられているのだ。

と近内氏は述べています。

そして、お金で買えないもの、およびその移動を「贈与」と呼ぶ。

たとえば、プレゼントは、ただの手に入れたモノに価値を感じているのではなく「商品価値からはみ出した余剰」にわたしたちは価値を感じているのだ。「その余剰分は自分自身では買うことができない」から。

そして、私たちは、他者から贈与されることでしか本当に大切なものを手にすることができないのだと。

また、贈与の不思議なところは、時として「もらうよりも、贈るほうがうれしい場合がある」というところにもある。どういうことかというと、好きな人に贈り物を受け取ってもらうというのは、「関係性を拒絶されていない」という事実の表れであり、贈与には必ず返礼が後続するため「贈与の応酬」に変貌することが期待されるからだ。

ということです。

交換の論理の限界

資本主義における交換の論理の問題点についても言及しています。

交換は「差し出すもの」と「見返り」が対等である場合に成立する。ウィンウィンの関係、ギブアンドテイクの関係でなければ成立しない。しかし、人は、自分のことを手段として扱おうとする人たちを信頼できないという問題がある。交換関係のみで人間関係を構築している人は、代替可能な人材として扱うために、だいたい不可能な関係を結べないという意味で「孤立」してしまう。

私たちが仕事を失うのが怖いのは、たんに経済的な理由だけでなく、仕事を失うことがそのまま他者とのつながりの喪失を意味しているからであると近内氏は指摘しています。

交換の論理だけの世界では、差し出すものが無くなったときに、誰かに助けを求めること、誰かに頼ることが原理的に不可能になってしまうという問題点もある。

自由な社会として私たちは近年、しがらみのない状態をよいことのように扱っているが、しがらみがないというのはつまり、他者との関係がない状態のことであり、他者との関係がないとは、迷惑もかけられないし、迷惑もかけないということだ。言い換えれば、自分の存在が誰からも必要とされていない状態である。と。

しかし、東浩紀氏の言葉を引用しながら贈与の本質は誤配であり、買っていないものが届くとか、間違って届くとか「差出人」もわからないものこそが贈与の本質である。ということを述べています。だからこそ「交換」があるから「贈与」が発生するのだと。

これにはちょっと、知見不足のためはてながありますが、「全てが交換の社会」は相互関係として成立しますが、「すべてが贈与」の社会は交換関係ではないというのですから、社会として成立しづらいことも想像できるため「交換社会のすきまに贈与は生まれる」というのはよく分かります。

そのほか

・バレンタイン
・親子の愛(無償の愛)
・鶴の恩返し
テルマエロマエ
・サンタクロース
・若者にとってボランティアは人気でも献血は人気ではない

などを例に出しながら、プレゼント、贈り物、恩などについて分析しています。

贈与、というのは、もらってしまえば返礼せねば、という義務感も生じることについて、内田樹氏や東浩紀氏を引用しながら、贈与関係のむずかしさについて筆をすすめ、しかし、本来贈与というものは鶴の恩返しもサンタクロースもそうであったように「差出人がばれてはいけない」ものだ、とも指摘しているのはおもしろい視点でした。

そして、じつは世界は差出人の分からない贈与が無数にあることに気づくことが、大人になることだと指摘しています。

誰からも評価されることも褒められることもなく人しれず社会の厄災を取り除いていた人たち、のことをアンサングヒーローと呼び、そんな存在に気付いたとき、人は自分もまたアンサングヒーローになることができると。つまりサンタクロースと同じですね。けっしてじぶんからのプレゼントだとは教えないけれどこどもはいつか親がサンタクロースだったことに気づき、そして子どもができたときにサンタクロースをやる。

限界費用ゼロ社会が実現したとき、生活に必要なものはすべてほぼゼロコストで手に入るようになるかもしれない。そんな時代は2050年頃かもしれないと『限界費用ゼロ社会』では述べられていますが、そんな時、なにが私たちの「喜び」になるのでしょうか。

消費することで得ていた心理的高揚感であったり、働くことで得ていた充足感は、どこに行くのでしょうか。

そんな時に思い出すひとつの考え方として「贈与する」「贈与される」という価値観を参考にしてみるのもいいかもしれません。