Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

死ぬことは一度しかできないが、生きることは何度だってできる。

人生を点で捉えないのは非常に有効なライフハックだ。


誰の役にも立てなくて、期待も裏切ってしまって、怒らせてしまって、最悪中の最悪、人生の底辺だと思っても、もっと最悪があるかもしれない。

 

それは今のところ闇金ウシジマくんを読んだりカイジを読んだりして想像するだけなのだけれど、まだ今なんてぜんぜん絶望にはほど遠い、そんな気になってくる。


自分の人生を、人生ゲームのように俯瞰して見てみると、順風満帆に右肩上がりではなく3歩進んで2歩下がっているし、ラッキーもあればアンラッキーもあるし、健康なときもあれば不健康なときもあって、結局、心電図のような上下に一定の周期でブレのあるバイオリズムに還元されているのかもしれない。

 

それはミクロでは操縦している気になっているが結局マクロではコントロール不可能なのかもしれない。と思う。


絶望してしまうというのは、希望があったということでもある。


ある人が、人生を一生懸命やっていた。

 

高校生の吹奏楽部も全力でやり、受験も成功、就活も妥協はあれどうまくいって、あとは適度に働いて休みのときには海外旅行をしたり恋人と暮らしてみたり、音楽を作ってみたり、着々と駒を進めている感覚になっていた。

 

ところが職場で軽度のイジメに遭い、上司からのストレスで心を壊し、人間関係も破綻してしまって、逃げ道を探すもむしろ悪化の一途で精神錯乱、精神病院に緊急入院、という出来事があった。


最悪だ、死にたい、死んだほうがいい。役に立てないなら死んだほうがマシ。誰ともうまくやっていけない。なんにもできる気がしない。と毎日うなされていた。


頑張って、うまくいって、適度に褒められて、これからもそうやって生きていくんだろうと思っていた矢先の転落。


毎日自殺衝動と戦っていた様子は本当に心が痛んだ。


「なぜ死んではいけないのか?」と何度も聞かれた。


「なぜ人は死んではだめなのか」に今のところ僕が答えを出すならば。


「死にたいのであれば死んでもいい」である。


生きるか死ぬかの権利は本人にある。生きてもいいし、死んでもいいのだ。


ただ、生きることは何度でもできるけれど、死ぬことは一度しかできない。


死ぬなら大事に死んだほうがいい。日にちも選んだほうがいいし、準備も必要。人に迷惑をかけないように(電車に飛び込んだら家族に賠償金の請求が行くし、家で首を吊れば後片付けも誰かがしないといけない。自殺のやり方は人に聞いてはいけない、自殺幇助という犯罪になるから)


そんなことをツラツラと話した。


その人は「なるほど、今日じゃないかもしれない」と1日、そしてまた1日生き続けた。


「でも、生きてるのもヒマだ」と言い出した。働けないし、何をしていいのかわからない、と。


散歩をするといい。きれいな空があるし、美しい花が見つかる。珍しい虫と出会うかもしれないし、つかれたらお腹も空いてくる。


お腹が空いたらご飯を自分で作ってみるといい。目玉焼きでもいいし、味噌汁もいい。家族が作ってくれていても、自分のぶんは自分で作ってみるのがいい。


お腹がいっぱいになったら眠くなるが、体は頑張っていろいろと動いている。食べたものを消化しているし、栄養を体に届けようとしている。それを感じてみると楽しいかもしれない。体にお礼を言うのもいいかもしれない。


誰かの役に立つことが生きることではない。

働くことが生きることではない。

生きることとは生きることだ。ただそれだけ。


寝て、起きて、歩き回って、食べ物を獲得して、食べて、時には語り合って、歌って、疲れたら寝る。


人の役に立ちたい時が来たら人の役に立とうと努力するのもいいし

そうでないなら、そうしないのもいい。


そうしないでいられるのは、誰かが自分の分も働いているお陰であるというのは頭の片隅に置いておいたほうがいいけれど。


頑張るのはたしかにかっこいい、けれど、頑張れないのがかっこ悪いわけではない。


仮にかっこ悪いとしても、かっこ悪くてもいい。


かっこよく生きることも、かっこ悪く生きることも、どちらでも選んでいい。選べる時代に生きている。

 

死ぬことは一度しかできないが、生きることは何度だってできるのだから。