Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

【読書】谷崎潤一郎の陰影礼賛の要約1/3

こんにちは、神崎です。

 

谷崎潤一郎の陰影礼賛。


f:id:kamkamkamyu:20190628180254j:image

 

日本文化に興味を持った人が、ほぼ必ずとおるであろう本。 

 

要約をしようと思ったんですが、要約してしまったら良さがなくなるというか、一文字一文字が尊いんですよ。

 

でも、しかたなく、自分のためにも、この中公文庫の陰影礼賛の、65ページまでの部分を要約することにしました。

 

関東大震災の後、情緒が失われつつあった江戸の町に対して、日本人がそれまで大切にしてきた美的価値観の真髄を、13の段落に分けて書いてあります。

 

見出しは、自分なりにつけたタイトルです。

 

今回は6個目までの要約を載せました。

 

ライトやガスやコードを日本家屋にどう調和させるか

 

乳白ガラスのシェードをかけて球をむき出しにした電灯は、自然で素朴だ。汽車から見る景色、茅葺屋根の百姓家の障子のかげに時代遅れのシェードをつけた電球が灯っているのは風流に思う。

 

扇風機はいまだに日本座敷と調和しにくい。障子は、ガラスを嵌めなければ採光や戸締まりの点で不便だ。

 

ストーブはまったく日本には合わない。大きな炉に電気炭をいれるのは、費用がかさむが工夫としては成功だ。木造の風呂場のタイルは時間が立つとタイルだけ白くツルツルに光って全体の映りが悪い。

 

日本の厠は精神が休まるようにできている

 

厠は必ず母屋から離れて、青葉の匂いや苔の匂いのしてくるような植え込みの陰にあり、廊下を伝っていくがその薄暗い光線の中にうずくまってほんのり明るい商事の反射を受けながら瞑想にふけり、窓の外の庭の景色を眺めるきもちは、なんともいえない。

漱石先生も毎朝の便通を楽しみにしていた。

 

閑寂な壁、清楚な木目、青空や青葉の色。薄暗と徹底した清潔、蚊のうなりが聞こえるほどの静けさ。四季折々のもののあはれを感じる。

 

最近は床にタイルをはめ、便器は磁器だ。これではよくない。私の注文としては便器は木製がよい。

 

もし我々が西洋とは全然別の独自の科学文明が発達していたならば国民性に合致したものが生まれていただろう

 

もしわれわれが独自の物理学、化学を有していたら、薬品も工芸品もわれわれの国民性に合致するものが生まれてたのではないだろうか。衣食住の様式はもちろんのこと、政治や、宗教や、芸術や実業の形態も、東洋として発展していたであろう。

 

たとえば万年筆でさえも、日本人か中国人が考案していたなら、穂先は毛筆であったし、インクではなく墨汁だった。紙も西洋紙では不便だから和紙に似た性質のもの。

そして漢字やかな文字に対する執着もつよかっただろう。

 

わたしは学理的なことは分からないが、ぼんやりとそんな想像を逞しくする。

 

 

日本は優秀な文明を取り入れた代わりに、今までの進路とは違った方向へ歩み出すようになった

たとえ緩慢にでも今日の電車や飛行機やラジオに代わるものを、他人の借り物でなく、自分達に都合のいい文明を発見する日があったはずだ。

 

映画を見ても、フランスやドイツのものとは陰影や、色調の具合がちがう。われわれの皮膚や容貌や気候風土に適した写真術があっただろう。

われわれの音楽も、控えめで気分本位のものであるから、レコードなどにしたら大半の魅力を失う。われわれは声が小さく、言葉数が少なく、なによりも「間」が大切であるが、機械にかけたら「間」は完全に死んでしまう。

 

そういう点で、われわれは色々な損をしていると考えられる。

 

東洋の人間は浅く冴えたものよりも、沈んだ陰りのあるものを好む

 

われわれは西洋紙に対して、実用品という以外になんの感じも起こらないけれど、唐紙や、和紙のキメを見るとそこに一種の温かみを感じ、心が落ち着くようになる。

 

同じ白でも西洋紙は光線をはね返すような趣があるが、和紙は柔らかい初雪のようにふっくらと光線を中へ吸いとる。折っても畳んでも木の葉に触れているように物静かで、しっとりしている。

 

西洋人は食器などにも銀や鋼鉄を使うが、われわれはピカピカ光るものを嫌う。かえって表面の光が消えて、時代がつき、黒く焼けてくるのを喜ぶ。

 

中国人はまた、玉という石を愛するが、あの、妙に薄濁りのした幾百年もの古い空気がひとつに凝縮したような、奥の奥のほうまでどろんとした鈍い光を含む石のかたまりに魅力を感じるのはわれわれ東洋人だけではないだろうか。

 

日本に「なれ」という言葉があるのも、長い年月の間に人の手がさわってひとつのところをつるつる撫でているうちに自然と脂がしみこんでくるようになる。東洋人は非衛生的分子を大切に保存して、そのまま美化する。

 

 

 

日本の漆器の美しさはぼんやりした薄明かりの中においてこそ本当に発揮される

 


四畳半の小ぢんまりした茶席で、暗い燭台の、穂のゆらゆらとまたたく陰にある膳や椀をみつめていると、塗りものの沼のような深さと厚みを持ったつやが、まったく今までとは違った魅力を帯出してくるのを発見する。

 

われわれは、茶事とか、儀式とかの場合でなければ陶器を使い、漆器というと野暮臭いものにされているが、それはひとつには照明がもたらした「明るさ」のせいではないだろうか。

事実「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないと言っていい。

漆器の肌は黒か茶か赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲をつつむ暗黒の中から必然的に生まれでた物のように思う。

古の工芸家が器に漆を塗り蒔絵をかく時は必ず暗い部屋を頭におき、乏しい光の中における効果をねらったのにちがいなく、金色を贅沢につかったのも、それが闇に浮かび上がるぐあいや、灯火を反射する加減を考慮したものと察する。

 

つまり金蒔絵は、明るいところで一度にばっとその全体を見るものではなく、暗いところでいろいろの部分がときどき少しずつ底光りするのを見るのである。

 

もしあの陰鬱な室内に漆器というものがなかったなら、ろうそくや灯明の醸し出す怪しい光の夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈拍が、どんなに魅力を滅殺されることであろうまことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛えられている如く、ひとつの灯影をあちらこちらにとらえて、細く、かそけく、ちらちらと伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す。

 

感想

たとえば、平成生まれの人間からすると、和室に扇風機のある風景はもはや情緒の一部になっているとか、筆ペンがあるとか、時代の違いがあるようには思える。

黒澤明監督の映画など、日本の陰影を映し出している。

 

それはさておき、谷崎潤一郎の描写力、文豪の文豪たる所以を感じるのは、漆器のところである。漆の色を、幾重の「闇」が堆積した色と表現する凄さ。夜の脈拍、畳の上の幾すじもの小川。官能的すぎて鳥肌が立つくらいの色気があった。これは本のほうで、音読してもらいたいと切に思いました。