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日記ということにします。しばらくは。

陸羽の生きた時代と陸羽の人物像。そして茶経について

 

陸羽という人物について。

茶道の精神性の核になる部分をつくりだした人として知られる陸羽。

 

 

 

どんな時代だったのか

 

陸羽が生きた733年から804年。唐の時代。

 

かんたんに言うと、めちゃめちゃ華やかな時代でした。

 

農民の生活を考えると、もちろん生活するのに苦しい人は多くいますが、都である長安を中心とした文化は絢爛豪華、この世のすべてがここにある、という時代だったという認識でいいのではないでしょうか。言うなれば、現代の東京と比較してもいいくらい。


唐の時代は618年から907年ですから、陸羽が生きたのはそのど真ん中。


最大人口は100万人ほど、2020年現在の日本で言うと広島市仙台市くらい。逆にピンとこないですかね。東京ドームの収容人数は5万5千人なので、20個分くらい。

 

712年から唐をおさめていた玄宗は傾国の美女と呼ばれる楊貴妃を寵愛しすぎたことで政治がうまくいかなくなります。後継者争いなどで揉め、安禄山が起こした安史の乱以降は徐々に政治力を失い、広くなり過ぎた領土をおさめることができずに戦乱の世の中へ突入していきます。

 

とはいえ、長安が世界の中心と言っていいほどの栄華を誇っていた。シルクロードでローマから日本までが経済的文化的につながることになった時代。中国全土とアラブの境目までが唐の領域であり、日本が遣唐使を派遣したように、世界中が唐の学問や文化を学びに訪れていた。儒教道教、仏教が盛んで、漢詩も最高峰と言われる時代。

 

周辺国家との交流も盛んだったため、異民族の文化や風習を受け入れ、影響し合い、融合した時代でした。律令体制は全国で適用され、比較的公平な政治が行われていた。そして商業の発展を背景に、武力国家から財政国家として統治していたのです。

 

農民は地縁的共同体として社会を形成し、仏事、葬儀の援助、宴会などの相互補助をおこなっていました。男性は耕作、女性は織物。貧困層は落ち穂を拾って飢えをしのいでいたような生活。

 

職人は世襲制。商人は商売がうまくいった人は王侯貴族を超えて住居も豪邸だったんだとか。

 

基本的な男性の服装は胡服と呼ばれた服装で、狭い袖の上着、ズボン、革帯、長靴

女性は自由で、色とりどりに染色されたものが使われ、絶え間なく移り変わっていった。
宮廷の間では女性の男装も流行ったようです。

 

農民は地縁的共同体として社会を形成し、仏事、葬儀の援助、宴会などの相互補助をおこなっていたのは想像しやすいですね。男性は耕作、女性は織物をしていた。貧困層は落ち穂を拾って飢えをしのいでいました。

 

職人は世襲制。商人よりも地位が低かった。

商人は王侯貴族を超えて豪邸を建てる大商人も出たようです。

 

料理は、シルクロードを通ってきた香辛料である胡椒やニンニクなどが料理に使われます。
中国北部では小麦、南部では米が主要な作物。

 

饅頭、ワンタン、餃子の流行。
肉も、牛、羊、豚、鶏、ラクダなどの家畜や狩った鹿やイノシシ、ウサギ、クマなど様々なバリエーション。海洋技術の発展によりカニイカ、ナマコ、海藻も流通。

 

果物はブドウ、ザクロ、ミカン、ナシ、スモモ、モモなどが食べられていたようです。

 

娯楽も豊かで、大道芸や人形劇、舞踏も盛ん。ボードゲーム囲碁や将棋も現代とほぼ似たルールのものができていたんですね。

 

酒の禁令もなく、酒造業が急速に発展し、多彩な酒が飲まれ、多くの詩人が酒をテーマに漢詩でうたったことが、李白などの師を読んでも分かります。

 

茶は南朝の文化だったんですが、統一王朝である唐が安定したため、物流が確立し、北方にも流通していきました。

 

そんな時代背景の中、社会も移り変わりがあるものの、農民、職人、商人以外の属性の人もいます。

 

外国人にも寛容な唐。商人、宗教家、画家、曲芸師、工芸家など合計で5万人を超えていたとされます。胡人と呼ばれ、居住区は区別されていたものの、それぞれの居住区で長が選ばれ、紛争などはそれぞれの自国の法律でさばくという先進的な政治。楊貴妃安禄山も異人の血が入っていたと言われています。

 

安史の乱以降、遊民たちのなかに無頼と呼ばれる人たちが生まれました。彼らは治安を乱したり、盗賊として活動したりしていた。
そんな無頼のなかでも、義を大事にしていた人たちもいて、遊侠や豪奢と呼ばれました。日本で言うと江戸時代の石川五右衛門的な存在ですね。規範や道徳に縛られずに自分を得ることに快感を覚えた人たち。

 

異国風の恰好をし、狩猟、剣術、騎馬、射撃、博打、宴会などの遊戯を積極的に楽しみ、自分たちが他者と異なる能力を持つことを見せびらかして愉悦に浸っていた。無頼と違うのは、弱者にやさしく強者に逆らい、貧民や弱者を救っていたということです。勇猛さや武術で名声が高まると高官に招かれ、刺客として働いたり、豪族や豪商とつながって非合法な商売で経済活動をおこなったりもしたそうです。日本の婆娑羅大名達と似たところがあります。

 

 

李白も遊侠の生き方を絶賛しています。詩人たちは遊侠たちに多大な好意と尊敬を寄せていたようです。

 

興味がある方は『大唐帝国』を読んでみるといいと思います。絶版ですが、図書館とかにはあるかも。

 

そして、なんとなく長安の雰囲気を知った気になれるのは映画の『空海‐KU-KAI-美しき王妃の謎』。空海遣唐使として唐に渡ったのは803年ごろですから、ちょうど、陸羽の没年ごろの政治の中心地である長安の様子がわかります。

 

正直、映画としては空海役の染谷将太君が歩き回っているだけでイマイチおもしろくなかったのですが、セットは豪華で綺麗だし、中国側もプライドをかけてかなりお金かけて作っていると思います。セットだけでも一見の価値あり。

 

 


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建築的なところが、とくに豪華さと権勢を表しているように思うのですが、こちらのウェブサイトにいくつか唐の時代の建築について説明が書かれていたので参考にしてみてもいいと思います。

 

www.hasegawadai.com

 

どんな人物だったのか

『茶人物語』という本に陸羽の人物像をまとめた記述があります。

 


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陸羽はブサイクで吃音。幼いころに、親に捨てられていたのを智積という禅僧が発見し、名づけをして弟子として教育しようとするも、生まれが不幸だったためか、反抗的でいたずらで、乱暴者。

 

ひねくれもので、当時流行りだしていた儒教の教えをもちいて禅僧の智積に論争をふっかけたりもする日々。

 

きちんと育てるつもりでいた智積も困り果てて、掃除や牛の世話など雑用を言いつけていたら、陸羽もプライドを傷つけられたのか、家出をして旅まわりの役者の仲間になって脚本書きなどして暮らすように。

 

戦乱を避けながら、皎然(こうねん)という詩人に出会い、作詩と禅と茶を学び、さらに当時の百科事典を作るメンバーに選ばれたりもしたことがのちのち『茶経』を書くにもつながってくるんですね。

 

茶の木はインドのほうから中国の都会のほうへ伝来したという経緯もあって、仏教と深く結びついていました。寺の境内では茶店があって信者に茶が施されていた。墓に茶をそなえる習慣も生まれたり。僧侶自身は茶を修行の眠気覚ましとして活用していました。

 

当時飲まれていた飲み方では茶の真の味わいを楽しむことはできない!として、貴族向けに「茶の百科事典と指南」というような位置づけで『茶経』を書いたようです。

 

陸羽は晩年も皇帝に才能を見出されて皇太子の文学の師となりますが、野性的なところはなおらず、散歩中に突然大声で詩を読み上げたり、気に食わないといって上役と激しくぶつかったりしていたとのこと。

 

けっこう、当時の社会でも現代の社会でも「社会不適合者」の部類に入る人間だと思います。非常にシンパシーを感じます。

 

とは言え、陸羽は「才能」があったので、文化に対する理解だとか、文学の素養といった「才能」によって、旅団に加わり、商売のの世界観であった当時の唐で、旅しながら見聞を広めていたんですね。

 

『茶経』の一部に

「茶之為用、味至寒、為飲最宜、精行儉德之人。」

 

と書かれています。

 

「茶の効用は、味は至って寒だから、飲むに最もふさわしいのは、行いが優れ、倹徳の人であろう。」

 

という訳になるのですが、「倹徳」というのは華やかさとは対照的な徳。「寒」とはすぐに感じる強い味ではなく、よく味わってはじめて分かるものであるという意味合いです。

 

ようするに、貴族的な人たち、裕福な人たち、社交性の高い人たちに対して「パーティーピーポーのおまえらには分からないだろうけども」という冷ややかな態度ががあったんじゃないかと思います。ひねくれものなので。

 

「俺の才能を理解しない奴ら」という感情もあったでしょう。社会に対しても鬱屈したドロドロとした感情を持っていたと思います。

 

『茶経』を記した後、茶は流通が確立し、消費と同時に生産も増え、経済に大きく貢献する商品として扱われていきます。あまりに経済を動かし過ぎて「茶税」をかけられたり、政府だけが茶を扱えるようにしようと言い出して民に反対されたりします。

 

そういう意味で陸羽は、存命のうちは人格が原因で評価されにくかったものの、功績は大きく、後世の時代に大きな影響を与えた人の一人であることは間違いないと言えます。

 

のちに日本で茶が発展し、一つの完成系として確立される茶の湯(茶道)の精神性の原型になっているという見方もあります。

 

利休の弟子が記した利休の茶の湯の極意書『南方録』も、『茶経』の一節「茶は南方の嘉木である」からとっていることは有名ですね。

 

茶経にはなにが書いてあるのか

『茶経』は、源・具・造・器・煮・飲・事・出・略・図の十節で構成されています。

 

「一の源」で茶の起源。

「二之具」では製茶に使う道具。

「三之造」では製茶工程。

「四之器」では茶器について。

「五之煮」は茶の点て方と火や水の良否。「六之飲」は飲料についてと茶に関連した主要人物、当時の茶の種類、悪い飲み方。

「七之事」では『茶経』以前の茶に関連する書物。

「八之出」では茶の産地と優劣。

「九之略」では略式の茶の作法。

「十之図」では茶席には『茶経』を掛け軸にして掛けて置くべきこと

 

と、かなり網羅的に記してあります。

 

『茶人物語』でも『茶経』の要約をしているので引用します。

 

『茶経」によると、当時の茶の飲み方はいろいろであったようである。湖北省四川省などの片田舎では茶の葉に糊を加えてモチのように練り、これを赤く変色するまで火であぶり、粉末にした上で熱湯をそそぎ、ねぎ、しょうがなどを薬味として飲んでいた。香辛料を入れたのは、茶の渋い味をやわらげるためだが、それらが持っている薬効を合わせて、茶の効用をいっそう高めるねらいもあった。

 

陸羽は、香辛料をいっさい入れず、茶に熱湯をそそぐ代わりに釜で煮出す方法を採った。つまり水を沸騰させ、湯玉が上がってきたところで少量の塩を入れ、そこへ薬硼で擂って粉にした茶を入れて煮出して飲んだのである。この煮茶法はやがてすたれ、抹茶や煎茶に変わっていくが、陸羽が茶の飲み方に大変化を与えたことは事実である。

 

 

陸羽が茶の真の飲み方を教える前は、生姜や柑橘を加えて塩で味付けしたスープのような飲み方をしていたということですね。

 

現代でも、西洋の人に玉露とか飲んでもらうとアミノ酸成分に「Too Strong だ」とか「スープみたいだ」と言われますが、当時、まだ鶏ガラのようなものがあったかはわからないけれど「うまみ」までははっきりしてなくても現代と近しいうまみへの感覚はあったのかもしれないと思います。

 

まだ「茶」が特別な「飲み物」ではなく「野菜」の一部あるいは「薬草」のような区分で見られていたということですね。

 

最近、また日本茶のあらたな方向性として「料理の素材にする」というアイディアをみなさん生み出していますが、昔を振り返ると、ヒントがあるかもしれないなあと、思ったりします。

 

私はお粥にしたり、ポン酢で食べたりするくらいですが、茶葉の栄養価はかなり高いので、無駄にしないという意味でもいいと思います。

 

『茶経』は

http://members.ctknet.ne.jp/verdure/cyakyou/01.html

 

こちらのサイトで現代語訳してくださっているので、ぜひ参考になさってください。

 

陸羽と陸羽の生きた時代背景と、茶経について紹介しました。