Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

嫌われたくないなら、個性など育てないほうがいい。

 

個性を育てよう、多様性のある社会を目指そう。と、言葉では言うものの、現実的に自分のとなりに多様性と個性で塗れた強烈な臭いのするおじさんが来たら「風呂に入れ」と言うだろう。ほとんどの人が。

 

なにを「個性」としてポジティブに評価して、なにを「異常なもの」としてネガティブに評価するのかは、また別の問題であるが、人間の持つ「仲間と仲間以外を分別する能力」への意識が現代は混沌としているなあと思う。

 

差別と区別のちがいは、その区分が適切かどうからしい。

 

適切かどうかは誰が決めているんだ、それは社会だ。

 

社会とはなんだ。

 

そう考えていくとやはり、太宰治は気の利いた文章を書くものだ。教科書に載っていて本当によかった。

 

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

太宰治人間失格』本文より引用)

 

「好ましい」「この人と一緒にいたい」という感情は、「うとましい」「この人と一緒にいたくない」という感情との対比で浮かび上がってくる。

 

「個性がある」ということと「好ましく思われる」ということはまったく別の問題であるので、個性を育てた結果、嫌われることもあれば好かれることもある。

 

嫌われることがイヤな人は、個性など育てないほうがよいとも思う。

 

「個性」というものは「同質性」からどれだけ外れているか、という意味でもあるから。