Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

笑いについて思ったこと

【笑える人生を送る】ということをいつからか中心にするようになっていた。へうげもの古田織部で言えば「乙である」ということかもしれないし、プロおごられやーさんだったら「ウケる」ということかもしれない。悲しいことも愛想笑いでごまかす、という意味ではなく、本当におもしろいことは大笑いすれば記憶に残って何度も笑えるし、悲しいこともどうせ時間が解決してくれるのだから今笑って時間を省略してしまっても問題ない。

「笑えることが大事だ」ということを思っていても、あまり言語化する機会がなかったので、なんとなく考えてみようと思う。

ニーチェは言っていた。

孤独な人間が笑う理由を、たぶんわたしはもっともよく知っている。孤独な人はあまりに深く悲しんだために笑いを発明しなければならなかったのだ


と。

孤独でかなしい、苦しい、と思っている場合、物理的な孤独と、精神的な意味での孤独に分けられる。まわりに人はいるのに「孤独感」がある人と、無人島的な場所でたったひとりになってしまったときのことだ。

と思えば、物理的な孤独などほぼ考える必要はないな、と結論付けられる。この時代、山里深くで人間と離れて生活していくということはよっぽどあり得る状況ではないからだ。物理的な孤独は消滅している。

家族も親戚も離れ離れになってしまった、事故でうしなってしまった、という「天涯孤独」はありうるかもしれない。しかし、どんなに「孤独」にひたろうとも自力のみでは生きていくことはできないので、食べ物を得るため、金銭を得るため、人とつながる必要がでてくる。たとえ金銭と労働力の実の交換関係としても、物理的な孤独からは逃れえる。しかし消えない「孤独感」というものにはどう対処すればいいのだろうか、ニーチェはそれを克服するのが笑いなのだと言っている。

笑いの科学的効果を分析したものを見ると、ナチュラルキラー細胞を活性化させるとか、セロトニンが分泌されるとか。そういう側面はあるらしい。

人類の起源のような部分から考えると、つまり「笑い」とは人類に必要なものだということが分かる。(脳が笑いを促している、つまり笑うように仕向けている、と考えられるから)

サルが孤独を解消する方法は毛づくろいだ、もちろん人間も今でもやる。しかし毛づくろいは1対1でしか効果がない。多数の他者と関わるとき、毛づくろいでは生産性が悪い。そんななか人類が生み出したのが「笑い」であった、と考えることもできる。

笑うことは気持ちいい。笑うことはコミュニケーションに有効だ。笑わせてくれる人を好きになる。笑わせてくれる人を中心に集団も形成される。

YouTubeを見ていても、ヒカキンさんはほぼ「変顔」だけで人気を博していると言っていいと思う。もちろん、毎日投稿する情熱とか、実はボイスパーカッションが世界的にもレベルが高いとか、編集技術も上達していったとか、様々な要因はあるけれど、本質的な部分だけを抜き取ってみれば「笑い」を提供していると言える。

笑いとは、と考えていくと、落語や漫才、劇という高度に進化したエンターテインメントがあり、理論も発達し、多くの人たちがしのぎを削っている。M1も無数の人間ドラマに満ちている。笑いを生む出すということは高度な仕事に昇華している。

ところが、一方で【笑いは毛づくろい】だ、と考えると高度に発達した漫才や落語やコントだけではない、コミュニケーションとしての手段であり、集団形成の要因になるということもしっくりくる。

YouTubeは「コンテンツ制作者と視聴者」という従来のテレビのような関係性ではなく「笑わせる人と、笑う人たち」という方向性で、独自の集団形成、独自の生態系をインターネット上につくっていくということなんじゃないか、と思う。