Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

瞑想は【感情を観察しているじぶん】を育てる

【感情を観察しているじぶん】



f:id:kamkamkamyu:20200823145554j:plain



毎日やるようにした。5分でも15分でも。



f:id:kamkamkamyu:20200823145707j:plain



瞑想をするとどうなるのか、瞑想とはなんなのか、という問いに対して持ち合わせている言葉がなかったので、あらためて考えようとしている。

瞑想の最中の心の動きのひとつに「記憶や感情が生まれても見送るだけ」というのがある。「洗濯物干すの忘れてた」とか「あの人のあの発言は今思い返してもナシなんじゃないか」とか、ぽつぽつとなにかしらの想念が生まれてくるが、生まれているなーと観察するのだ。

どれだけ続けた頃からかは分からないけれど、その【感情を観察しているじぶん】というものが存在していることに気づいてくる。感情を所有しているじぶんと、感情を所有している自分を観察しているじぶん、に分かれて存在している。そして、感情を、それ以上でもそれ以下でもないもの、としてフラットに観察できるようになってくる。

これがさらに瞑想を続けると、日常でもできるようになってくる。たとえば「友達を飲みに誘ったけど断られた」という時、以前なら「嫌われたのかな」とか「ほかの人と用事があって忙しいのかな」とか「もう誘わないほうがいいかな」とか、想像が広がっていってしまったものが「友達を飲みに誘ったけど断られて少し寂しいな、以上」と、切り替えられるようになる。

「できごと」に対して不安や妄想、怒りや悲しみと言った感情をなくすというのは難しいことだ。よっぽどの達人だろうと思う。けれど「できごとと、それに付随して生まれた感情」をなかったことにするのではなく、あることを認めて、見送ることは瞑想によってできるようになることだ。

これはスキル、と呼んでもいいかもしれない。
とにかく人の悩みというものは「余計なことを考える」ということがほとんどのように思う。実際には不確実なことや、考えても分からないことを考えたり、不安がることで精神的なダメージを受けていることが多いように思う。

誰かの受け売りだけれど、本来、動物というものは物理的な攻撃を受けたときとか、物理的な傷を負ったときに消耗するのであって「受けた言葉や自分自身の想像」でダメージを負うのは脳のバグである、と。言葉というものは本来鳴き声であって、鳴き声で傷つくなんて動物界なら生きていけないぞ、という話だった。おもしろくて好きだ。

私たちは、日々、言葉で傷ついてしまう。想像で消耗してしまう。

瞑想によって、言葉で感情が動いた自分から傷を受けないようにできる、ということはあるのかもしれないと思うのだ。

ネガティブな感情からはさっさと離れて、ポジティブな感情を集めておいたほうがいい。

幸福と不幸は、認知のしかたの違いで「良いことばかり起こる人」や「悪いことばかり起こる人」がいるわけではなく、「良いことばかり発見できる人」と「悪いことばかり発見できる人」がいるということだから。

悪いことはまあいっか、と流して、良いことはやったあああああ!と喜んだほうがいい。

そういう大事なスキルが、瞑想では鍛えられる、と思う。