Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

目標がないと「ズレる」ことすらできない。

8/23から8/30の間に23本の投稿をした。
文章量としては1500~2000文字程度の平均。

茶の本の解説や、陸羽のことが書けたのはよかった。文章として書きなれていないのでつたないかんじになってしまっているけれども、本来はこういう文章を書きたい。雑誌の『Rice』が出版されたのを読んで日本茶のことがブームになっていることを喜ぶ気持ちと同時に、足踏みしている自分にいらだちを覚えた。利休のこと、茶室のこと、茶のこと、それ以外の茶人のこと、茶にまつわることは話せるのに、書くということを避けてきたということもあって、書こうと思ったときに書けない現実があることに気づいてなおさら、悔しく思えた。自分に悔しい。

人は、本来あってほしい自分というものから、ズレている時に悔しさを感じるものだ。

ありたい姿や、目標がないと「ズレる」ことすらできない。

悔しさを感じているのは、そういう意味ではいいことかもしれない、と思っている。

悔しさも努力の燃料になる。他人への嫉妬を燃料にしたり、他人への見返してやるという気持ちを原動力にするのは不健全なところがある気がするけれど「理想の自分とずれているギャップへの悔しさ」はいい原動力なんじゃないか、と思う。

そういう意味で、悔しさをエネルギーに変えて、9月もやっていきたい。実際の自分の態度は淡々としているので、頑張るという言葉を使うとなんだかそれも違う感じがするけど、頑張っているし、頑張りたいと思う。頑張りすぎない程度に頑張るというのはいいものだ。「過ぎている」というのはどんな時も「過ぎた」時にしか気づかないものだけれどしかたない。

月の目標というよりも、1週間ごとに目標を決めていくほうが自分には向いているかもしれない。

来週は5本はお茶に関する文章を書く。10本はお茶に関係ない文章を書く。1日あたり2本のペース。

70本書いたことで、はっきりわかったことがあるとすれば、書けば書くほど、自分の考えの輪郭があらわれてくるということだ。

人による、状況による、はっきり言えることなどなにもない、というスタンスで今まで来たので、はっきり言うべき「主張」はとくにないという、あいまいなかんじだったのが、文章を書くことで、良くも悪くも、曖昧にしておけない、ということで、輪郭が現れてきた。

もうすこし文章力がついてくれば、曖昧さを書くこともできるようになるのかもしれない。今は単純な文章を書くしかないな、と思う。

目標を持つ、という意味では、本数を目標にするのもありだけれど、やはり「こういう風に書きたい」というスタイルを見つけて、目標にしたい。

「目標」なんて大学受験の時以来はっきり決めずにやってきたけど、決めていないときよりも決めているときのほうが充実しているし、ワクワクしているので、やはり目標を決めるというのはいいことだ。

今日たまたま、数人で食事をしたときに、いろんな話の最後に「君は今はがむしゃらにやってみたほうがいいかもね」と言われた。今までは目標もとくになく「今をよしとする」という態度を選んでいたので「俺はこれでいいのだ、がむしゃらにやらないということが良さなのだ」というプライドもあった。今日はなんだか、最近頑張っていて、がむしゃらにやっているし、もっとがむしゃらにやったほうがいいと思っていたので、自然と「そうだよな」と思えた。

なんなら今日はその言葉を言ってもらうための日だったのかもしれない。

がむしゃらにやりたい。

がむしゃらにやる時期は絶対必要だ。がむしゃらという言葉では正しくないかもしれない。とりあえず、勝算がありそうなら行き止まりまで行け。行き止まりについても壁を殴りまくれ。ダメだったら別の道を探そう。そんな気持ちだ。