Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

すべての「好きなことで生きたい人」は今すぐにブログを書いたほうがいい

僕は「茶人」と名乗って「抹茶をたてること」でお金をいただいて生きてきた。庭を改造する仕事をしたり、アーティストと一緒に民家を解体するバイトをしたり、ホテルの壁紙を張り替える仕事もしたり、YouTubeのタレントみたいなこともして、裏では生きるためにいろんなことでお金を得てきたけれど「茶の研究」をすることが第一目的であったので、いろいろな視点を通して「茶」を眺めてきた。

後悔していることがあって、それはひとつ、余計なアドバイスを真に受けてしまったことだ。

「茶人」という道を選んだことは、ほとんどの人にとっては「人生の間違い」になるだろう。はた目から見たら「好きなことをやっている」と言われることもあるが、突飛である。ここ数年はインターネットの恩恵を受ける人も増え、YouTuberが職業として成り立って、情報発信を通して様々な新しい職業が生まれているので、それほど「間違い路線」でもないのだけれど。

後悔、というのは「ブログをやらないほうがいい」と言われたことだ。

「茶人」に対してのイメージというものがある。あなたは雰囲気ではそれを醸し出せているが、文章ではそうではない。つまり知的で清貧なイメージをブランディングしていくのに「ブログ」を書いてはいけない。

という内容だった。

実際、僕は大学生のころに200記事ほどブログを更新していて、月に3000PVくらいはあったし、何度か炎上も経験していた。

200記事書いたところで、たしかに、自分は文章力も低く「言えること」が「書けない」という実感はあった。本を読んだり経験を通して得た情報を脳から引き出して音声にする速度と、文字にする速度の間に大きな隔たりがあって、文字にすると、書いている間にどんどん言いたかったことを忘れていってしまうし、陳腐な表現におさまってしまう。

音声でのコミュニケーションは、発声のしかたでだいぶ印象が変わる。相手があって会話があるので、相手の言葉遣いに合わせたり、速度や呼吸に合わせることが大事だ。ゆっくり間を取って話すことでインテリジェンスな雰囲気を醸し出すこともできるし、専門知識はかみ砕いて言わないとわかりづらい。

ところが文章になってくるとコミュニケーションとしてまったく別のフィールドで、そもそも「話しかける相手」も不在である。独り言になってしまう。

言い文章を書く人というのは「語りかける相手」を意識しながら文章を書くらしいが、まだその感覚はつかめていない。

「語りかける相手を意識する」どころか「言いたいことすら適切な言葉選びで言えていない」のだから困ったものだった。

そんな状況で、4年ほど前に「あなたはブログをやらないほうがいい」と言われ、そうか、と納得してしまった。安心したのかもしれない。書くことから解放された、と。

ところが4年間茶人を続けてきた結果、実績として6000人に抹茶を点ててきた経験はあり、好きなことで生きてきた経験も残ったのに、その経験を「言葉」として操作することができない自分のままだった。

きっと、会社員であれば、あるいはメンバーとの密なコミュニケーションを必要としていれば、同僚やメンバーに説明するために言語化をする必要性が生じ、日々のメールの中で自分の考えが整理されていったのだろうが、ぼくにはそのような状況はほとんど必要なかった。

必要なかっただけで、内省的に日記にでも書きつけていればまた違ったのだろうけれども、さぼっていた。

今になって「言語化できる」ことの必要性を感じた。遅すぎることはない、遅すぎることはないのだけれど、それでも悔しい気持ちが先行する。

もし「ブログを書かないほうがいい」なんて言葉を真に受けずに、恥ずかしい思いをしてでも書き続けていたら
もし「自分のためにだけでも書いておこう」と日記だけでも書いていたら

もう少し良い文章が書けるようになっていただろうか
もうすこし人に発信力のある人間になっていただろうか

悔しくてたまらない。

書けば書くほど、書けなさと向き合っている今、4年間を取り戻さなければいけない、という意識がある。