Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

1か月で本を17冊読んだ。13冊はメルカリで売れた。

今月は17冊の本を読んだ。そして13冊売った。ほとんど再読だったけれど、処分するために、売るためにも今までとは読み方を変えた。

今までは、最初から最後まで順番に読みたかったし、手元においておくことでいつでも見返せると思って好きな文章を選ぶということもしてこなかった。文章を並列に扱っていた。

本棚がいっぱいで、このままだと「本を邪魔だと思いつつ買い続ける人生になる」と思ったので「処分する」ことを意識し始めた。

「処分する」と決めると、意識がさらに変わった。

処分するからにはもう二度と読めないという気持ちで読む。

誰が書いたのか、どんな人物なのか、何を言いたいのか、誰に向けた本なのか、本にできるかぎり誠実に向き合い、感銘を受けた言葉、好きな文、学びになった文を書き写したり、写真に残したりして、処分に備えるようになった。

目次を最初に読むし、はじめに、やあとがき、を次に読む。パラパラとめくって、好きな章を選ぶ、好きな文章を選ぶ。ブログに書くために、書く文章も選ぶ。

人生というものはすべて選択の結果でできているし、人は選択(決断)によって発達するという。

決断力、というものはこんなところでも鍛えることができるし、決断力がなければ、好きな文章さえも選ぶことができないのだと思った。

なにかを選ぶということは、なにかを選ばないという事でもある。選ばない決断をしているという意味でもある。

ミニマリストのしぶさんが「捨てることによって意志力を鍛えられる」というようなことを動画でも述べていたけれど、今まで「本を所有する」ということで「意思力を鍛える機会を損失していたのだな」と思った。

起きる時間、食べるもの、会う人、連絡する人。行動はすべて選択だ。習慣のように無意識でおこなうこともあるし、理想的な自分がとるはずの行動を無意識に選択させるという方法をとっているのが苫米地式コーチングのやり方だけれど、複合的な意味で「本を断捨離する」というも目標を立てたのはよかった。

幸いにもお茶を仕事にできてきたので思うけれど「なにを考えてなにをしているか」は大事だ、もっと言うと「同じことをしていても、なにを考えているかが違えば全てが違う」と思う。

総体的で連携的な考えがあれば、思想とか哲学と呼ばれる領域に達するだろうけれども、それは影響力に関係してくる。たとえば「哲学のあるお掃除アドバイザー」と「哲学のないお掃除アドバイザー」は「部屋を綺麗にする」という点で見たときはどちらも変わらないけれど「習慣にさせる」という意味では「哲学のあるお掃除アドバイザー」のほうが重宝されるだろう。

なぜなら「お掃除をしたい」だけではなくて「お掃除をすることでなりたい自分になる」ということがほとんどの場合、真の目的だから「トイレ掃除のやりかた」だけではなく「感謝の気持ちを育てて幸運体質になるトイレ掃除のしかた」のほうがいいし、そんなに直接的でなくても、それを垣間見せるような「深み」が影響力を与えるのに必要だと思う。

涙の数だけ強くなれるよ、という、強さとは、やさしさのことだったんじゃないか、と思う。強さだけを求めたとき、そこには宮本武蔵のような「戦いの螺旋から抜けられない」ということが発生してくる。強さ、というものは相対的なもので、弱さと対比して現れるものだから、常に「弱さ」を外部に召喚しなければならない。やさしさは絶対的なものだと思う。誰かと比べなくてもやさしさはやさしさだ。

涙を流した分だけ、痛みを受けた分だけ、涙の意味が分かるようになるし、他人の痛みへの想像力も養われる。

悩みと向き合う、も、弱さと向き合うことだ。自分の弱さを知ることで、他人の弱さも知ることができる。自分の弱さを簡単に乗り越えてしまったら、他人の弱さも簡単なものだと断じてしまう場合がある。悩みに向き合い続ければいいわけでもないから難しいけれど、今の自分の悩みには等身大で向き合いたい。

本を読み、処分し、決断力を養って、断捨離もしていく。生活も言葉も、自分のスタイルというものを確立するために、余分なものを切り落としていきたい、と思いつつできない、できない自分も否定するではなく、愛していきたい。