Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

秋、思い出の部屋。

9月。うっとうしく肌に付きまとう暑さの中に、爽やかな風が混じるようになってきた。日射で温められた空気が一粒の氷でわずかに温度を下げたようだ。

好きで好きでどうしようもないくらい、他に何も考えられないくらいの恋もいつか終わりを迎えてしまうし、終わりのはじまりにはやはりどこか予兆もあって、終わりの気配を感じながら少しずつ心の準備をしていくような季節が、秋だと思う。

「暑い」と言うことに言語エネルギーが費やされてしまう夏とはちがって、頭に余白が生まれる。身体感覚と心理の動きは対応していて、涼しさもまた、思考に影響を与えている。

秋のはじめに思うこと、それは弱さだ。

栄華を極めた平家もいつかは源氏に政権をとってかわられたように、265年間続いた江戸幕府明治維新で打倒されたように、どれだけ強いものでも、いつか弱くなる時が来る。

永遠に続くかと思われた暑さも、涼しさが混合するようになり、やがてその比率も涼しさが勝ってきて、寒さに変わる。

太陽が登っていた空も、しだいに月が顔を出すように。まだ若手として扱われていた20代中盤、もっと若くて力のある人間が出てきて、もう「若さ」をアイデンティティとして保持することができなくなるように。

心の底から分かり合えたと思った友人も、すれ違い、距離ができて違う道をいく決断をした時のように。

別れは寂しさを生み出す。

自分の血肉の一部であるかのような親しみをもっていたなにかが、喪失された空虚感。

失ったものは、一度持っていたものだ。

そして、物質的に失っても、じつは精神的には所有したままだ。

それは記憶として保たれる。どちらかというと脳にあるよりも、やはり心のどこかにあるのだと思えてならない。

目を閉じて、しずかに呼吸を数えると、精神世界と呼ぶべき場所に降り立つことがある。きっと、だれにでもその場所はある。

心のどこか、暗い、レンガでできたような洞窟を階段を降りて行った先に、木製の大きくて重い扉がある。金属の原始的な鍵で、重々しく閉ざされていて、自分だけがそこに入ることができる。

なにか懐かしい匂いで充満している。醤油とみりんを煮詰めたあましょっぱい匂い、口の中を噛んだときのような鉄の匂い、干してあったあたたかな布団の太陽の匂い。アルコールで清潔にされた白い部屋の匂い。

誰かに見せたいと思っても、連れてくることはできない。誰かに伝えたいと思っても、全てを伝えることはできない。シェア不可能な世界。

さいころに海ではしゃいで流されていった小さな靴とか
拾った枝で殴って怪我をさせてしまった友人の泣き顔とか
野球ボールでガラスを割ってしまった時の大人の怒った顔とか
初恋の時のどきどきとか
友達に話しかけても無視されるようになった時の絶望とか

もう、どんなにお金を払おうとも手に入らない記憶。

痛ましく苦しかった、傷の痕跡。

忘れる忘れないの領域にない、自分を形づくったひとつひとつのパズルのピースが、壁に飾られている。

壁には、色も失ってしまった映像が流れている。誰の声かもわからない、具体性を欠いた、ピントのあっていない、ぼやけたムービー。けれどたしかに自分はそこにいて、何かを感じていたのだという確信だけがある。

物悲しい、けれどどこか安らぎもある不思議な空間。

無限の可能性に満ちた空間。なんにでもなれた。どこにでも行くことができた。無制限の分岐点から、そのたびそのたびに選んできたことを思い出させられる。

これからどこに向かうのだろう、これからどこに向かうことを望んでいるのだろう、あるいは、望んでいたのだろう。

いつまでもいられるようなその部屋は、出ていかなければならない。

新しい、ピースを見つけると、またそこに展示されるのだ。


ラインの通知で目を開くと、そこはもう、自分の部屋だ。雑多に本が散らかっていて、ヒグラシの声が聞こえ、時折、電車の走りゆく音が聞こえる。