書くことの「怖さ」
良い文章の裏にある良くない文章の山
ふだんからどうでもいいことも書いておかないと、文章の奥行きや、幅の広さや、自由さを失ってしまうというニュアンスの文章を読んで、思わずうなづいてしまった。
「良い文章」を書きたいとしても、その下には山ほどの「良くはない文章」が死屍累々と積み重なっているものなんだろうなと思う。
泥で濁った水の入ったバケツがあったとして、しばらく置いておくと泥は沈殿して、上澄みは透明できれいな水になってくる。
と言ってもバケツのそれを飲めるわけでもないのだが、どうでもいいことの山から生み出されるいい文章のイメージはそんなかんじかもしれない。
もしくは川原のたくさんの砂利の中からひときわ綺麗な小石を見つけるかんじ。
砂利はTwitterから見つけてくるのではなく、あくまで自分が書いたモノの中からしか見つからないような気がする。
文章を書くことの怖さ
友人に書いたブログを送って読んでもらっていたら「私も書きたいけど文章を書くのが怖い。あなたは怖くないのか?」と聞かれた。
「怖さ」もいろいろあるので何を指しているのかいまいちわからなかったけれど「リスク」なのか「文章に対しての不信」なのかどちらなのだろうかと考えていた。
「リスク」については、もうしばらく書いていったらまた変わるのかもしれないけれど、今はほとんどアクセスがないので何も怖いことは起こっていない。
以前の話で言えば、ネットストーカー気味な人に出くわしたこともあったし、一度炎上したこともあった。
自分が男性だからというのもあるかもしれないが、リアルで凸されることへの恐怖はそんなにない。煽ってもいないのでそういう人は出てくないだろうとも思う。
炎上は気分は良くなかったけれど、インフルエンサーの人を見ていると基本的には「慣れ」なのだろうと思う。
人間は物理的に危害を加えられない限りは死なないので、言葉での攻撃へは自分がどう向き合うかだ。
自分が間違ったことを言っていないなら平謝りでいいし、間違えたことを言っているならきちんと謝るしかない。現実と同じだ。
ただ、それで言うなら「文章への不信」にも繋がってくるのだけれど、言いたいことを不足なく書けていないので、それはかなりストレスだ。
つまり、「自分の意見」として提出するには不十分な文章を今は書いている。これを読んで「そういうことを考えてるんだな」と固定化されて見られるのは「怖い」
書いていくことで書けるようになる
まあ、悔やんだところで自分は自分でしかないのだから、自分のペースでやっていくしかない。
今日書けるようになったことの積み重ねが、1年後の文章を作っているんだ、と思うことで気長にやっていくことができる。
たしかに、インターネットで発見した自分よりも年下の人の書いた文章を読んで嫉妬することもある。
けれど、「怖い」で言うならこのまま「書かない人生」を続けていった先に、今日以上に悔しい気持ちになるほうが「怖い」かもしれない、とだけ思う。