陶芸をしてきた。
陶芸をしてきた。誰かの役に立ちたい貢献感でなく、やらなくてはいけない義務感でもなく、自分の内奥から湧いてくる「純粋な美的感覚」を表出させたい。
浜北の新原のアトリエ。つくる前は、お手本の形を見つけてないとか、スケッチしてないとか、いいものができない理由が思いついてしまう。
しかし、粘土に触れて、土のざらつきを感じながら水分や硬さが均一になるように練っていくと気持ちが粘土のほうへ近づいていく。体が忘れてしまって菊練りができなくなってしまったので、小学生のどろんこ遊びのように戯れているだけだけれど、手が泥まみれになって、爪の間にも土が入ってくると、もう余計なことは考えなくなってくる。人間の毒素のようなものが抜けていくような感覚になり、この世的なものから自由になる。体も泥の一部になったかのように、泥人形になったかのような状態になってくる。
こうした状態になったときの自分が感じることや考えることに興味がある。まだまだ試行回数がすくないながら、文字通り手さぐりに、美しさを探していく状況。美しさとはなんなのか、分からないなりに、そのときそのときで「これだ」というものを決定する作業。美学というものは、この作業の繰り返しに生まれるものなのだろう、と、隣の陶芸家をあらためて尊敬する。
ひとりきり。暗闇に立っている。目の前を照らすものはなにもない。大胆かつ丁寧に。頬を撫でるように、心臓に触れるように。金属のヘラを粘土のかたまりに差し込んで、やさしく切り取っていく。大きなかたまりから、無駄なモノをそぎ落として、なかですやすやと眠っている白雪姫を掘り出していくような。
削りすぎても、あるいは削らなくても「これでいいのか」と問いかけられる。自分の声なのか、粘土の声なのかはもはや分からない。パラパラと机に散らばっていく粉。
いいとも言えるし、よくないとも言える。価値判断の基準がまだできていない。けれど、この分厚くて重たいカーテンを潜り抜けた先には、たしかにその美しさがたたずんでいることだけは分かる。その美しさを、どうにか光のあたるようにしたい。他人からしたら美しいとは思われないかもしれない。美しいと思うのは自分だけかもしれない。それでもかまわない。
終わりが来る、いや、終わりを決めなければならない。「これでよいのだ」と答えなければならない。悔しくても。「今日のところは」と捨て台詞を吐いたとしても。
ここちよい疲れがある。自分の内奥に渦巻いている美意識というものに向き合うということが、どれだけ疲労することか、思い出す。人はみな自分の美意識を確実に握りしめている。握りしめた指を一本一本開いてあげるような感覚。美意識を握りしめている純粋な自分と語り合い、少しずつ見せてもらう感覚。
粘土は、右の手のひらにおさまるような、ちいさな茶杯になる。