本を「読みっぱなしにしない」について
今月から、ブログを書くことを決めて27日。合計で56本。この投稿で57本になる。
記事というには、取材をしているわけでもなく、手元にある本の感想や、ランニングや瞑想についての自分の感想を書いているだけで、たいした情報でもないかな、とおもいつつ、それでも友人に見せたりすると面白がってくれるので価値はあるだろうと思う。
検索結果に上がってくるにしても何か月かさきになるのだろうし、アクセス数などは気にしていてもしかたない。
ブログを書くと決めるまえは「書きたいけどなにを書いたらいいのかいまいちわからない」というかんじだったのが、実際は書いているうちに書きたいことが出てくることに気づいた。
少しでも文章を書くと、呼び水になって、どんどん文章を連れてくるみたいだ。
稚拙であることはしかたないので、書いていくうちにレベルアップしていきたい。
今までは文章を書いていないがゆえに「俺は本当はいい文章が書ける」「今はまだ本気を出して書いていないだけ」という意識がどこかにあって、書いてみると「いい表現が思いつかない」「感想が陳腐」「誰に読ませたいのか分からない」などなど、自分で読み返すだけでも反省点がたくさんあり、眼だけ肥えてしまっていたことにも気づかされた。
商業レベルで書けるようになりたいという目標もすこしずつ輪郭が見えてきたのでこのままとりあえず100本、150本と重ねていって、量の中で質を上げていこうという目論見である。
先週くらいから、断捨離をかねて手持ちの本をメルカリに出品して、売れるまでの間に感想をブログで書くということをやっているのだけれど「本を持っているだけで血肉になっていなかった」というショックとも向き合うことになった。
だいたいの要約は、会話レベルなら「こんな本だったよ」という程度には読んでいるのだけれど「印象に残った一文」とか「本当に学びになったところ」とか、具体的にここが良かったということを文章で書くレベルには読めていなかったことが判明したというか、
phaさんも『やらないことリスト』の中で「よみっぱなしにしない」と、読書について言及している。
phaさんは読書も好きだし、インターネットも好きだし、アウトプットも好きなようなので、自然にできているようなところもあるのかもしれないけれど、
単なる情報を血肉にするには、他人の目を意識して文章をアウトプットしてみるのが有効な手段だ。何かを身につけたいと思ったら、気になることを自分で調べて、ブログなどで自分の言葉をつかって説明しよう
と述べている。
振り返ってみると、自分の中で確実に使える知識とよべるようなものたちは、いずれも、情報をしっかり調べた後に、取捨選択してまとめて、人に話せるように台本もつくって何度もしゃべったものだったり、それこそ大学時代の研究論文で書いたことだったりする。
結局、書いたことしか書けるようにならないのだなあ、と感慨深く思った。
書いたことしか書けるようにならない。そんなことは頭では分かっていたのに、モタモタして書かないでいた期間が長かった。
大学生の時にブログをやっていた時から、恥をしのんで学んだことや経験についてブログに書いていればいまごろ、、と思うこともなくはない。
まあ、過去のことは悔やんでもしかたない。もっと前からやればよかったのに、と後悔したときが一番のやり時とも言う