Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

「できる」「できない」は人間的な価値になんの関係もない。

減点法で生きないほうがいい。

〇〇ができないなんて人としてだめだ、からは距離を取らないと、最後には人生をやる資格がないなんて話になっていってしまう。

 

こんな簡単な仕事ができないなんて。料理もできないなんて。手続きもできないなんて。

 

人間は社会的な動物なので、社会的な上下関係をつくるためにマウンティングをする。自分ができて相手ができないことを発見すると、嬉々として見下す場合がある。

 

嫁姑問題の話を聞いてると「きれいなお弁当もつくれないなんて」とか「掃除もまともにできないなんて」とか言われるらしい。

 

「できない」人がいるから「できる」人に価値が生まれるのであって、みんなが「できる」ならなんの価値もない。呼吸ができてもすごくはないし、心臓が動いていてもすごいとは誰も思わないように。

 

本当は呼吸が自力では難しい人だっているし、機械を使わなければ心臓を動かしていられない人もいるのだけれど、99.99%の人が自力で無意識にできるのですごいと思われることはない。

 

現代においては満員電車に乗って会社に通勤できるとか、毎日人と会話ができるとか、毎日きちんと服を着れるとか、そういう能力があたりまえで誰でもできるのだと思いこんでいる人が多い。

 

できない人は「社会不適合者」というレッテルを貼られることになるのだけれど、社会はそもそも人が人のために作ったもので、社会に人が適合していくのはなんだか目的と手段が入れ替わっているような気がする。

 

人のために社会があると考えれば、満員電車に乗れない人や、人と会話をするのが苦手な人や、朝起きられない人に対してのアプローチをすべきである。

 

もちろん聴覚障害視覚障害、手足の欠損を持った人々に対してのフォローやケアも重要であるし、社会に完全に適合している「できる」人たちと「できない」人たちとの間にあるグラデーションを埋める取り組みはもっと行われてほしいと思う。

 

最近の研究で聴覚障害の人は聴覚が遮断されている代わりに資格情報の取得が鋭敏になって、周辺視野が健常者よりも広くなる(場合がある?)と明らかになったらしいというのを読んだけれど、なんらかの能力が欠如している代わりに何らかの能力が余分にある場合もあるだろう。

 

ただ、その文脈でいくとやはり「できる」ほうが偉いという価値観の中での話になっていくので、そうではなく、いるだけで価値があるという価値観が徹底されるといい。

 

ただ、家族や周囲の人たちが、「できない」人のために時間を割いたり労力を割いたりするのが大変で、まったく無関係な人が無責任なことが言えるのだろうという指摘もある。

 

それは半分そうで、半分そうではないと思う。誰しもが生きている以上、「できない」人になる可能性をはらんでいる。交通事故かもしれないし、虫によるなんらかの影響かもしれないし、ウイルスによる影響かもしれないし、自然災害かもしれない。

 

今、「できる」人が、体も心も健常で何もかもがうまくいっていて、目標があって、努力をすれば努力が実って、自己実現に猛然と向かうことができるのは奇跡のような時間なのだ。明日には全く違った人生が突然始まるかもしれない。

 

だから、自分のためにも「できる」とか「できない」で人の価値を測って、上下関係をつくったり、助けるか助けないかを決めたり、優しくするか優しくしないかを決めるのはやめたほうがいい。

 

まあ、できないよりは、できたほうがいいのは間違いないのだけれど、それは人間的な価値とはなんの関係もない。そういうことは覚えておいてほしい。