Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

音楽教師が鬱になった話

結局のところ「人生」というものを考えると「社会とどう付き合うか」という話であると思う。「家族という社会」「友人関係という社会」「仕事という社会」「恋愛という社会」

人は、ひとりでいることに耐えられるなら、あるいはポジティブに言うと孤独を愛せるならば悩みや不幸といったものはほとんど感じないのだ。

1人でいること、生活を縮小することの唯一の敵は「飽き(慣れ)」である。

日々の変化に敏感になって、昨日よりも今日、葉の色が黄色や赤に色づいたこと、空気に1%に冬が混じり始めたことに気付けるならば、退屈という敵はもう存在しない。世界は一秒たりとも同じ世界を見せることはもうないだろう。

社会と隔絶しても、あたたかい寝床と十分な食べ物がありさえすれば、生存はしていけるのだから。

ところが「社会」との結びつきがあると、そうはいかない。

赤ちゃんもしくは子どもは、新しいおもちゃを欲しがり、どこかの公園へ行きたがり、鮮やかな色のアイスキャンディーを欲しがる。お金を稼いでこなければならない。

仕事に行けば、同僚やライバルとの相対評価で日々評価をつけられているし、人格攻撃もされながら成長を促される。水と太陽の光と十分な栄養がない植物は枯れてしまうように、人間の成長にも良質なインプットと小さなチャレンジが必要で、お金や時間をベットしなければならない。

独り身であったなら、ふとした時に寂しくなって「こんな時に誰かと一緒にいれたらよかったのに」と恋人の存在を欲求する。もはや恋愛も資本主義経済のシステムに汚染されていて、見た目や家事能力や服装のセンスや会話の能力や、さまざまな要素が評価対象になっていて、誤解した自己評価に釣り合わなければ恋愛対象として除外されてしまう。

ある音楽教師の女性は責任感もあって仕事も優秀で他人から見ればエリートとしてキャリアを積んでいったのだけれど、頑張りに心が耐えられなかった結果、鬱になってしまって、人生の夏休み、と自分を見つめ直していた。

教師という職業は「良い悪い」という絶対的な価値観の中で、ボーダーラインを決めて、そのボーダーラインを生徒が越えられるように導いていく仕事である。

教師という職業の責任範囲は教師によってちがう。「短期的に(1年から最長3年間)のうちに学業的あるいは部活動的に成長させようとコミットする教師」もいれば、「長い人生のうちのわずか数年、本人の希望や努力を尊び、見守る教師」もいる。

前者は後者を「やるきがない」と言って批判しがちで後者は前者に「肩の力を抜いて」とアドバイスしがちである。

ルーキーズの野球部顧問になった川藤幸一や3年B組金八先生は前者で、ドラマチックで美談として取り上げられやすいのも前者である。

しかし、キャリアとして教師を考えると短期的に成果を出せるノウハウやスキルがあったとしても、成果を出し続けるという点で考えると問題が生まれてくる。燃料が足りないとか報酬が足りないとか、期待が大きい、日々のストレスが大きいなど、つまりアスリート的で消耗的で、寿命が短いと考えることができる。太く短い生き方だ。

一方で、短期的には成果は出さないけれど、長期的に安定して問題を起こさない起こさせない、フラットで平均点をとれる控えめな教師は、ストレスもあるにしても比較論としては小さく、期待も小さい。その分喜びややりがいも小さいかもしれないが、卒業した生徒が大人になって母校に顔を出しても「まだ先生やってたの」なんて言われるくらいの関係があるかもしれない。

どちらがいいか、は選べる問題ではない。アスリート的な教師はなろうとしてなれるほど簡単な役割ではないし、一方で長期的に安定した教師も、あらゆる妥協や諦め、悟りを経てそうなる場合があるだろう。

どちらが能力的に自分に向いているのか。そして、キャリアとしてどう生きていきたいのか。ストレスや報酬とのバランスで納得できるのかという議題は、生徒を見ているのと同じ目で自分に向けなければならない。

鬱になってしまった女性は前者のアスリート的な教師だった。人を観察する能力も高く、人の長所や短所、家族的あるいは友人的な問題も鋭くとらえてコミュニケーションをはかり、相手との距離感をつくれる人だ。部活では生徒を指導し、いい成績をとらせてあげていた。彼女自身が学生の時に優秀なプレイヤーをやっていたから。

鬱になってしまった原因を考えると「努力をしても努力をしてもまだ足りないと思って努力を続けてしまう、そして睡眠時間が削れる」「生徒たちの前(人前)では常に慎重かつ時には大胆にコミュニケーションを行うのでいつもストレスフル」というところがあるのだと話していた。

カウンセリングにも通って、服薬を続けているのでアドバイスすることは何もないのだけれど「お茶の精神を学べたら」と会いに来てくれたので、ハーブティーや抹茶を一緒に飲みながらお話をしているのだけれど。

長所というのはつねに弱点になる。

努力ができて、成功体験もあるから、さらに努力を続けることができる。
だから「努力をしても成果につながらないことがある」とは考えられない。

実は、努力をすれば成果につながることもあるし、つながらないこともある、が正しいのだ。これはつまりなにも言っていないに等しいのだけれど。

ダルビッシュは「正しい方向に向かって適切な努力をすれば成果につながることもある」だったか、「正しい方向に向かって適切な努力をしなければ普通に努力はあなたを裏切る」だったか、努力について述べていたけれど、努力をしなければ成功はしないけれど、努力をしても成功するとは限らない、のだ。

適度なあきらめがなければ、徒労感だけが残ってしまう。

とくに「自分の能力を上げるだけ」「自分の立場をつくるだけ」であればコントロール可能性はぐんとあがるだろうけれども「他人をいい方向に変えよう」というのは非常に難しい。難しいことは承知の上でなさっていることもわかるけれど、やはり心のどこかで期待を捨てきれていなかったから心が疲れてしまったんじゃないか、という話をした。