過去を消化するために
「子供の頃に親から言われた一言」に囚われすぎて、20歳でも30歳でも「あの時お母さんがあんなことを言わなければ」って言う人いますよね。そういう人の話を聞いてあげて、前向きになってもらうのってどうしてるんですか?難しくないですか?
と就労支援のプロに聞いたところ
「60歳でもそういう人っていますよ!大変だったねえ、嫌だったねえ、お母さんは今は何してるんですか?って聞くと、もう12年前に死んだかなあって、もうーーーみたいな」
もちろん、その人なりのトラウマで、その人なりの納得感があって、なにを考えるにもなにをするにもそこのセーブデータから始まってしまう、という心理状況はよくわかるんですよ。
僕も母親を5歳の時に亡くしているので。「母親がいればこんな人生にはなっていなかった」と思ったことは何度もあります。
もっと悩みを話せたかもしれないし、アドバイスをもらえたかもしれないし、より良い行動がとれたかもしれないし、より良い人間関係が築くことができて、明るくて楽しい人間になっていたかもしれない。
母親がいないから、あらゆる行動に母親がいないことの影響が現れていて、バタフライエフェクト的に現在の自分が形成されて、こんな意味不明な人生を欲求する陰キャになってしまったんじゃないかと壁に頭を打ちつけたくなった夜は幾度も経験したし、実際に頭は打ちつけた。
しかし、考えてみよう。もし過去の出来事のせいで、今の自分が不幸なのであれば、未来もずっと不幸であり続ける。
言われた言葉は訂正されることはないし、亡くなった人間が生き返ることもない。つまり、その「不幸」の「原因」である「過去」は不変なのだから。
すべてはコントロール可能なものとコントロール不可能なものに別れる。私達がコントロール可能だと思い込んでしまったコントロール不可能なものもあるのだけれどそれは別の話で、
「過去」はコントロール可能なものだろうか
答えはNO
「今」はコントロール可能なものだろうか
うーん、そもそも「今」ってなんなんだろう。ミクロで見れば、今この瞬間にも「未来」が「過去」になっている。答えは保留。
じゃあ、「未来」はコントロール可能なのだろうか
これから食べるものは寿司でも焼き肉でもなんでもいいし、食べなくてもいい、行動を選択できる、つまりYES、コントロール可能。
過去は変えられず、未来は変えられる。
過去は変えられないことは分かってしまった。けれど、「見方」ならどうだろう。
「過去の出来事をどう捉えるか」は、未来の選択だ。選ぶことができる。
最悪なものだったと思い続けることもできるし、なんだかんだであれがあったから良かったのかも、と思い始めることもできる。
もちろん、過去が本当に苦しくてまだまだ消化できていないという人にとっては、そんなのは言葉遊びに過ぎないとも思われるだろう。
あなたには過去の咀嚼と消化ともしかしたら排泄が必要かもしれない。
トラウマになっているできごとについての想いを言い尽くすまで誰かに聞いてもらうこと
つらかったね、苦しかったね、と共感してもらうこと
頑張ったね、耐えてきたんだね、と受け入れてもらうこと
頭を撫でてもらったり、抱きしめてもらうことも必要かもしれない。
そうして、誰かの力を借りて肩の荷を降ろし、これからはどうするのか、急がなくてもいいから、過去の精算もしつつ、前を向くことが必要だ。
心からあなたの味方になってくれて、幸せを願ってくれる人の力を借りよう
就労支援のプロのかたは、さすがプロで、絶対に否定しないと言っていた。
「乗り越えてしまった人」は時に「あなたも乗り越えられるよ」と安易にアドバイスしてしまいがちだ。
過去を消化するには適切なプロセスがいる。よく噛んで胃袋におさめて胃液で溶かすように。