歴史を学ぶメリットは「感謝の範囲を拡大すること」ができるところ。
これは、煮てはいないので、雑煮ではないのかもしれない。
焼いた餅を吸い物で食べる料理をなんと呼ぶのだろうかと考えてしまう。
簡単に食べられる雑煮のレシピとして重宝しているのが、あおさのスープをつかったやつ。お茶漬けにも使えるし味噌汁にも使えるし万能なので海藻スープは常備してあります。
そして龍神梅を入れます。
焼いた餅をのせて、かつお節をパラり。
お湯を注ぐだけ。
言いたいことはたくさんあるのに、書けない。
梅干しは健康にいい、ということ、海藻も健康にいいということ、そして餅を食べるたびになんとなく思い出す餅の文化史。
お餅はもともとコメ信仰の日本において、神饌としてささげたものでした。モチは蒸したモチ米に水分を混ぜ、臼に入れて杵でついてつくるもの。出来立てはふかふかしているけれど、すぐに乾燥して固まり、カチカチになる。そして貴重な保存食として食されたのでした。
餅をおろそかに扱うと天罰が下り、家が没落したという伝承もあるそうで、餅の白さから白鳥の伝説とつながっていくようです。白鳥は空から飛来する。太陽の光も空から。米は太陽の恵みで育つ。日本人の魂は白鳥が運んできた穀物霊なのではないか、というお話です。
日本人の祈りも、土地や植物や稲魂や田の神に向けられたもので、大地へのイノリがあると、ミノリが生まれ、充実や成熟、実現という精神的な感覚とも結びついたようです。
米もおいしいけれど、お餅もおいしい、ですが、このおいしい食べ物を多くの人が満足に食べられる時代が来るまで人類の歴史、日本人の歴史があったのだなあ、としみじみします。
最近の異世界転生ものラノベなんかでも、魔界や勇者の世界だけでなく、過去への転生がよくありますが、過去とはまさに異世界だと思います。
現代という世界を見るときに、過去という異世界から見ることで、現代のあたりまえを客観視することができます。
茶を学ぶようになってから、茶道が発展した時代はどんな時代だったのか、なにを食べていたのか、どんな生活だったのか、どんな身分差があったのか、どんな当たり前だったのか、そういうことを考えるようになりましたが、
物理的にも時間的にも別の過去という世界の視点を獲得することで、現代の生活のありとあらゆる場面で「異世界性」を見出すことができます。
「あたりまえになってしまう」ということは、人間関係でも一番の問題です。
「ありがとうと言われなくなってきた」「そばにいることが当たり前だと思うようになってきた」そういうところから、絆のほころびが生まれてきます。
あたりまえにあるものでも、実は「有り難い(ありがたい)」ものだったのだ、と気づいたとき、本当の意味で感謝が生まれて、人間関係も大切にしたり、食べ物も大切にしたりするのだなあと思います。
まだまだ気づかないことが多くて相手から「感謝の気持ちが伝わってこない」と指摘されたりもあるのですが「感謝の伝達能力を高めていくこと」「感謝の範囲を拡大していくこと」って大事だな、と。
餅を食べながら考えていました。