お茶と祈り
エジプトの血を持つフランス人のモハメドと話していたことを思い出していた。
「茶は内省的態度になるためのスイッチなんじゃないのか」
そんなことを彼は言った。
彼はキリスト教の信者で、祈りを捧げる習慣がある。そして、お茶を淹れる時、あるいは飲むときのぼくの姿勢が「禅的な空気を感じる」と表現した。それは祈りに似ている、と。
お茶にお湯を注ぐとき、茶葉に余計なストレスを与えないようにほそやかな水をやさしくかける。
急須を振ったりゆすったりせずに、茶葉が水を吸収している様子をイメージする。
茶の葉が徐々に水分を吸収して、畑で育っている時のみずみずしい姿にもどっていくような姿を見つめながら、静かに急須を持ち上げ、湯のみに傾ける。
茶葉のゆらめき、ぶつかり合い、水の流れ。心は茶葉の一部に寄り添っている。
自然と背筋は伸び、呼吸は深く、緊張感と安心感の同居した空気は、隣人に伝染する。
そんな様子を、モハメドは「祈りに似ている」と言った。
お茶は自分自身のために淹れるときと、他人のために淹れるときがある。必ずしも祈りの姿ではないだろうけれど、自分のためのお茶は、すくなからず共通する部分はあると思う。
「自分」ではなく「お茶」へ、あるいは「急須」へ意識を向ける。それは「神」に意識を向けるのと、どれほどの違いがあるだろうか。
もてなすためのお茶であれば、感謝や尊敬を含んでいたり、緊張したり、良く見せようとしたり、心の動きもいろいろだ。
「お茶を飲むときって、コーヒーみたいに雑にはできない。コーヒーなら適当に入れて映画とか身ながら飲みたくなるけど、お茶って、ぼくは背筋が伸びちゃう。母が茶道をやっていたからかもしれないけれど、お茶はお茶に集中したくなってしまう」
そう言っていた建築家さんもいた。
モハメドは「そう?僕は映画見ながらグリーンティ飲むけど」と言った。
お茶のおもしろいところは、それぞれにそれぞれのスタイルがあるところでもあると思う。
映画を観ながらのお茶、自分と向き合うためのお茶、人を楽しませるためのお茶、器を愛でるためのお茶、土地を知るためのお茶。
どんなお茶があっても良いのだと思う。
日本に来てから1200年のうち、どれだけのバラエティに富んだ向き合い方があったのだろうか、と考えるのも楽しい。
実際、戦国時代にはキリスト教が入ってきて、キリシタン大名もいた。茶室を礼拝堂として、茶をとおして祈りをおこなっていた武将もいたようである。
もっとさかのぼれば、禅の修行の際に眠気覚ましとして飲用していた。
茶と宗教の結びつきも深く調べれば調べるほどおもしろいけれど、僕は「今、どのように茶に人は向き合うか」に興味がある。
人間が、手の延長線上で箸やスプーンをつくり出し、足の延長で馬車や、車を生み出したように、お茶は、お茶はまあ自然のものだけれども、人のなにかの延長にあるのではないかと思う。
お茶をとおして、人はなにかをよくしている。それは、心のような気もする。お茶は心を映し出す鏡になっているんじゃないか。そう思う時がある。