Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

お茶と祈り

エジプトの血を持つフランス人のモハメドと話していたことを思い出していた。

「茶は内省的態度になるためのスイッチなんじゃないのか」

そんなことを彼は言った。

彼はキリスト教の信者で、祈りを捧げる習慣がある。そして、お茶を淹れる時、あるいは飲むときのぼくの姿勢が「禅的な空気を感じる」と表現した。それは祈りに似ている、と。

お茶にお湯を注ぐとき、茶葉に余計なストレスを与えないようにほそやかな水をやさしくかける。

急須を振ったりゆすったりせずに、茶葉が水を吸収している様子をイメージする。

茶の葉が徐々に水分を吸収して、畑で育っている時のみずみずしい姿にもどっていくような姿を見つめながら、静かに急須を持ち上げ、湯のみに傾ける。

茶葉のゆらめき、ぶつかり合い、水の流れ。心は茶葉の一部に寄り添っている。

自然と背筋は伸び、呼吸は深く、緊張感と安心感の同居した空気は、隣人に伝染する。

そんな様子を、モハメドは「祈りに似ている」と言った。

お茶は自分自身のために淹れるときと、他人のために淹れるときがある。必ずしも祈りの姿ではないだろうけれど、自分のためのお茶は、すくなからず共通する部分はあると思う。

「自分」ではなく「お茶」へ、あるいは「急須」へ意識を向ける。それは「神」に意識を向けるのと、どれほどの違いがあるだろうか。

もてなすためのお茶であれば、感謝や尊敬を含んでいたり、緊張したり、良く見せようとしたり、心の動きもいろいろだ。

「お茶を飲むときって、コーヒーみたいに雑にはできない。コーヒーなら適当に入れて映画とか身ながら飲みたくなるけど、お茶って、ぼくは背筋が伸びちゃう。母が茶道をやっていたからかもしれないけれど、お茶はお茶に集中したくなってしまう」

そう言っていた建築家さんもいた。

ハメドは「そう?僕は映画見ながらグリーンティ飲むけど」と言った。

お茶のおもしろいところは、それぞれにそれぞれのスタイルがあるところでもあると思う。

映画を観ながらのお茶、自分と向き合うためのお茶、人を楽しませるためのお茶、器を愛でるためのお茶、土地を知るためのお茶。

どんなお茶があっても良いのだと思う。

日本に来てから1200年のうち、どれだけのバラエティに富んだ向き合い方があったのだろうか、と考えるのも楽しい。

実際、戦国時代にはキリスト教が入ってきて、キリシタン大名もいた。茶室を礼拝堂として、茶をとおして祈りをおこなっていた武将もいたようである。

もっとさかのぼれば、禅の修行の際に眠気覚ましとして飲用していた。

茶と宗教の結びつきも深く調べれば調べるほどおもしろいけれど、僕は「今、どのように茶に人は向き合うか」に興味がある。

人間が、手の延長線上で箸やスプーンをつくり出し、足の延長で馬車や、車を生み出したように、お茶は、お茶はまあ自然のものだけれども、人のなにかの延長にあるのではないかと思う。

お茶をとおして、人はなにかをよくしている。それは、心のような気もする。お茶は心を映し出す鏡になっているんじゃないか。そう思う時がある。

最近の自己観察

最近の行動と幸福度の関係を思い出すと、起床時間、運動、文章を書いたか、行動量、人との連絡量、料理をしたか否か、湯船に浸かったか否かあたりがかなり関係してきている。

1、起床時間

これは、前日の就寝時間も含めてなのだけれど、23:00までに寝て6:30に起きるのが一番調子もよかったし、満足感も高かった。

睡眠時間は、短いのはもちろん健康に良くないし、長すぎても健康に良くない。

国立がん医療センターの対象者99860人(男性46152人、女性53708人)の日頃の睡眠時間を5時間以下、6時間、7時間、8時間、9時間、10時間以上のグループに分け、その後、平均約20年の追跡中に、18042人(男性:11259人、女性:6783人)の死亡を確認し、死亡に関連する年齢、地域、喫煙、飲酒、緑茶摂取、コーヒー摂取、独居状況、健診受診の有無、余暇の運動頻度、高血圧、ストレス、肥満度(BMI)の影響を統計学的に調整し、睡眠時間が7時間のグループと比較した他のグループの、その後の死亡リスクとの関連について検討した研究がある。



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これによると、7時間睡眠がMore Beterrであることがわかる。

一般的に睡眠時間5時間の人は7時間の人に比べて1.28倍の死亡率、睡眠時間10時間の人は1.83倍の死亡率だったのだ。

20年の追跡調査をして、18000人の死亡者を研究しているのでかなりデータとしては信頼できるだろう。

朝に運動をして、日光を浴びることでセロトニンも分泌されるし、幸福感があっていい。

2、運動

8月から適度な運動を心がけていて、8月1日から8月21日までの3週間は毎日走っていたし、9月は5日、10日、12日に走った。

8月1日は2.5㎞を30分かけて走っていたのが、9月12日現在では5㎞を30分で走れるようになった。住長に心肺機能も高まっているし、下半身の筋肉も鍛えられている。自分で気づく程度だけれど、太ももがすこし太くなった。

夜に走るのと朝に走るのではどちらのほうがいいか、という話には、走ればどちらでもいい、と思っていたのだけれど、今思うと、朝のほうがいいかもしれない。朝一番に走ることで、その一日のスタートを切ることができて、活動にメリハリがつく。

前述のように、セロトニンを分泌していることも良いのかもしれない。

ジョギングを続けることで体力もつき、そのぶん人との連絡や、パソコン作業などがはかどるようにもなった。

3、文章を書いたか

これははてなブログに毎日投稿している。
人目にさらさなければやる気が維持できなかったので、拙い文章でも毎日投稿することを目標にしてきたけれど、最近は文章を書く癖もついてきたので、Evernoteでの日記をはじめて、内省し、整理してからブログにまとめようと思ってきた。

まだまだ「量より質」とは言えないけれど、そろそろ質を大事にしてもいいころかと思い、時間をかけた文章を書きたいと思っている。

実際的にアクセス数は毎日投稿したほうがいいという情報もあるので、なるべく1日1本は欠かさないようにしながら、1本1本の質を高めていきたい。

文章を書くことのメリットはたくさんあるが、一番は「次に進める」ことだと思う。
もやもやしていること、なんとなく分かっていること、それらは言葉にすることで可視化され操作性を帯びる。分かっているつもりになっていても、実際、人に説明しようとすると言葉で伝わらないとうこともあるので、人に話す前に日記で整理し、ブログに投稿することで、人と話すための準備にもなる。

また、「書く」ことで、行動が蓄積される感覚があって、楽しい。
今のところ、投稿が間に合わなかった日はあるものの、書かなかった日は無い。このまま書くことを習慣として続けていきたい。

4、行動量

単純に、家から出なかった日よりも、外に出た日、人に会いに行った日のほうが幸福度が高い。

文章を書いていても、家に引きこもっていた時はなんだかもやもやが残っている。

5、人と連絡をとったか

これも、1人で一日過ごしていた日よりも、電話をした日や1時間以上のチャットをした日のほうが満足度がある。

人は孤独でいると脳の損傷を受けることが研究で分かっている。そういうことなのだろうか。

6、料理をしたか否か

最近は料理をするのも面倒で、外食も増えてしまっていたのだけれど、白米を炊いて味噌汁をつくって納豆卵で食べるだけでもいいし。ペペロンチーノをつくるだけでもいい。料理をしなかった時よりも、料理をした時のほうが満足度が高くなっている。

7、湯船につかったかどうか

シャワーですませるよりも湯船につかったほうが圧倒的に体力の回復感があるし、きもちがいい。
人に合わない日などは面倒でシャワーすら浴びない時もあるけれど、それはけっこう最悪だ。体が臭くなることでなんだか嫌な気持ちになるし、べたべたするし、ちょっとかゆい感じもある。
湿度が低いヨーロッパなら何日かシャワーを浴びないということも聞くけれど、湿度が高い日本、とくに夏(もう秋だけれど)ではシャワーを入らないとけっこう精神的にストレスになっている。

以上、最近の自己観察

過去を消化するために

「子供の頃に親から言われた一言」に囚われすぎて、20歳でも30歳でも「あの時お母さんがあんなことを言わなければ」って言う人いますよね。そういう人の話を聞いてあげて、前向きになってもらうのってどうしてるんですか?難しくないですか?

 

と就労支援のプロに聞いたところ 

 

「60歳でもそういう人っていますよ!大変だったねえ、嫌だったねえ、お母さんは今は何してるんですか?って聞くと、もう12年前に死んだかなあって、もうーーーみたいな」

 

もちろん、その人なりのトラウマで、その人なりの納得感があって、なにを考えるにもなにをするにもそこのセーブデータから始まってしまう、という心理状況はよくわかるんですよ。

 

僕も母親を5歳の時に亡くしているので。「母親がいればこんな人生にはなっていなかった」と思ったことは何度もあります。

 

もっと悩みを話せたかもしれないし、アドバイスをもらえたかもしれないし、より良い行動がとれたかもしれないし、より良い人間関係が築くことができて、明るくて楽しい人間になっていたかもしれない。

 

母親がいないから、あらゆる行動に母親がいないことの影響が現れていて、バタフライエフェクト的に現在の自分が形成されて、こんな意味不明な人生を欲求する陰キャになってしまったんじゃないかと壁に頭を打ちつけたくなった夜は幾度も経験したし、実際に頭は打ちつけた。

 

しかし、考えてみよう。もし過去の出来事のせいで、今の自分が不幸なのであれば、未来もずっと不幸であり続ける。

 

言われた言葉は訂正されることはないし、亡くなった人間が生き返ることもない。つまり、その「不幸」の「原因」である「過去」は不変なのだから。

 

すべてはコントロール可能なものとコントロール不可能なものに別れる。私達がコントロール可能だと思い込んでしまったコントロール不可能なものもあるのだけれどそれは別の話で、

 

「過去」はコントロール可能なものだろうか

 

答えはNO

 

「今」はコントロール可能なものだろうか

 

うーん、そもそも「今」ってなんなんだろう。ミクロで見れば、今この瞬間にも「未来」が「過去」になっている。答えは保留。

 

じゃあ、「未来」はコントロール可能なのだろうか

 

これから食べるものは寿司でも焼き肉でもなんでもいいし、食べなくてもいい、行動を選択できる、つまりYES、コントロール可能。

 

過去は変えられず、未来は変えられる。

 

過去は変えられないことは分かってしまった。けれど、「見方」ならどうだろう。

 

「過去の出来事をどう捉えるか」は、未来の選択だ。選ぶことができる。

 

最悪なものだったと思い続けることもできるし、なんだかんだであれがあったから良かったのかも、と思い始めることもできる。

 

もちろん、過去が本当に苦しくてまだまだ消化できていないという人にとっては、そんなのは言葉遊びに過ぎないとも思われるだろう。

 

あなたには過去の咀嚼と消化ともしかしたら排泄が必要かもしれない。

 

トラウマになっているできごとについての想いを言い尽くすまで誰かに聞いてもらうこと

 

つらかったね、苦しかったね、と共感してもらうこと

 

頑張ったね、耐えてきたんだね、と受け入れてもらうこと

 

頭を撫でてもらったり、抱きしめてもらうことも必要かもしれない。

 

そうして、誰かの力を借りて肩の荷を降ろし、これからはどうするのか、急がなくてもいいから、過去の精算もしつつ、前を向くことが必要だ。

 

心からあなたの味方になってくれて、幸せを願ってくれる人の力を借りよう

 

就労支援のプロのかたは、さすがプロで、絶対に否定しないと言っていた。

 

「乗り越えてしまった人」は時に「あなたも乗り越えられるよ」と安易にアドバイスしてしまいがちだ。

 

過去を消化するには適切なプロセスがいる。よく噛んで胃袋におさめて胃液で溶かすように。

 

 

音楽教師が鬱になった話

結局のところ「人生」というものを考えると「社会とどう付き合うか」という話であると思う。「家族という社会」「友人関係という社会」「仕事という社会」「恋愛という社会」

人は、ひとりでいることに耐えられるなら、あるいはポジティブに言うと孤独を愛せるならば悩みや不幸といったものはほとんど感じないのだ。

1人でいること、生活を縮小することの唯一の敵は「飽き(慣れ)」である。

日々の変化に敏感になって、昨日よりも今日、葉の色が黄色や赤に色づいたこと、空気に1%に冬が混じり始めたことに気付けるならば、退屈という敵はもう存在しない。世界は一秒たりとも同じ世界を見せることはもうないだろう。

社会と隔絶しても、あたたかい寝床と十分な食べ物がありさえすれば、生存はしていけるのだから。

ところが「社会」との結びつきがあると、そうはいかない。

赤ちゃんもしくは子どもは、新しいおもちゃを欲しがり、どこかの公園へ行きたがり、鮮やかな色のアイスキャンディーを欲しがる。お金を稼いでこなければならない。

仕事に行けば、同僚やライバルとの相対評価で日々評価をつけられているし、人格攻撃もされながら成長を促される。水と太陽の光と十分な栄養がない植物は枯れてしまうように、人間の成長にも良質なインプットと小さなチャレンジが必要で、お金や時間をベットしなければならない。

独り身であったなら、ふとした時に寂しくなって「こんな時に誰かと一緒にいれたらよかったのに」と恋人の存在を欲求する。もはや恋愛も資本主義経済のシステムに汚染されていて、見た目や家事能力や服装のセンスや会話の能力や、さまざまな要素が評価対象になっていて、誤解した自己評価に釣り合わなければ恋愛対象として除外されてしまう。

ある音楽教師の女性は責任感もあって仕事も優秀で他人から見ればエリートとしてキャリアを積んでいったのだけれど、頑張りに心が耐えられなかった結果、鬱になってしまって、人生の夏休み、と自分を見つめ直していた。

教師という職業は「良い悪い」という絶対的な価値観の中で、ボーダーラインを決めて、そのボーダーラインを生徒が越えられるように導いていく仕事である。

教師という職業の責任範囲は教師によってちがう。「短期的に(1年から最長3年間)のうちに学業的あるいは部活動的に成長させようとコミットする教師」もいれば、「長い人生のうちのわずか数年、本人の希望や努力を尊び、見守る教師」もいる。

前者は後者を「やるきがない」と言って批判しがちで後者は前者に「肩の力を抜いて」とアドバイスしがちである。

ルーキーズの野球部顧問になった川藤幸一や3年B組金八先生は前者で、ドラマチックで美談として取り上げられやすいのも前者である。

しかし、キャリアとして教師を考えると短期的に成果を出せるノウハウやスキルがあったとしても、成果を出し続けるという点で考えると問題が生まれてくる。燃料が足りないとか報酬が足りないとか、期待が大きい、日々のストレスが大きいなど、つまりアスリート的で消耗的で、寿命が短いと考えることができる。太く短い生き方だ。

一方で、短期的には成果は出さないけれど、長期的に安定して問題を起こさない起こさせない、フラットで平均点をとれる控えめな教師は、ストレスもあるにしても比較論としては小さく、期待も小さい。その分喜びややりがいも小さいかもしれないが、卒業した生徒が大人になって母校に顔を出しても「まだ先生やってたの」なんて言われるくらいの関係があるかもしれない。

どちらがいいか、は選べる問題ではない。アスリート的な教師はなろうとしてなれるほど簡単な役割ではないし、一方で長期的に安定した教師も、あらゆる妥協や諦め、悟りを経てそうなる場合があるだろう。

どちらが能力的に自分に向いているのか。そして、キャリアとしてどう生きていきたいのか。ストレスや報酬とのバランスで納得できるのかという議題は、生徒を見ているのと同じ目で自分に向けなければならない。

鬱になってしまった女性は前者のアスリート的な教師だった。人を観察する能力も高く、人の長所や短所、家族的あるいは友人的な問題も鋭くとらえてコミュニケーションをはかり、相手との距離感をつくれる人だ。部活では生徒を指導し、いい成績をとらせてあげていた。彼女自身が学生の時に優秀なプレイヤーをやっていたから。

鬱になってしまった原因を考えると「努力をしても努力をしてもまだ足りないと思って努力を続けてしまう、そして睡眠時間が削れる」「生徒たちの前(人前)では常に慎重かつ時には大胆にコミュニケーションを行うのでいつもストレスフル」というところがあるのだと話していた。

カウンセリングにも通って、服薬を続けているのでアドバイスすることは何もないのだけれど「お茶の精神を学べたら」と会いに来てくれたので、ハーブティーや抹茶を一緒に飲みながらお話をしているのだけれど。

長所というのはつねに弱点になる。

努力ができて、成功体験もあるから、さらに努力を続けることができる。
だから「努力をしても成果につながらないことがある」とは考えられない。

実は、努力をすれば成果につながることもあるし、つながらないこともある、が正しいのだ。これはつまりなにも言っていないに等しいのだけれど。

ダルビッシュは「正しい方向に向かって適切な努力をすれば成果につながることもある」だったか、「正しい方向に向かって適切な努力をしなければ普通に努力はあなたを裏切る」だったか、努力について述べていたけれど、努力をしなければ成功はしないけれど、努力をしても成功するとは限らない、のだ。

適度なあきらめがなければ、徒労感だけが残ってしまう。

とくに「自分の能力を上げるだけ」「自分の立場をつくるだけ」であればコントロール可能性はぐんとあがるだろうけれども「他人をいい方向に変えよう」というのは非常に難しい。難しいことは承知の上でなさっていることもわかるけれど、やはり心のどこかで期待を捨てきれていなかったから心が疲れてしまったんじゃないか、という話をした。

すべての「好きなことで生きたい人」は今すぐにブログを書いたほうがいい

僕は「茶人」と名乗って「抹茶をたてること」でお金をいただいて生きてきた。庭を改造する仕事をしたり、アーティストと一緒に民家を解体するバイトをしたり、ホテルの壁紙を張り替える仕事もしたり、YouTubeのタレントみたいなこともして、裏では生きるためにいろんなことでお金を得てきたけれど「茶の研究」をすることが第一目的であったので、いろいろな視点を通して「茶」を眺めてきた。

後悔していることがあって、それはひとつ、余計なアドバイスを真に受けてしまったことだ。

「茶人」という道を選んだことは、ほとんどの人にとっては「人生の間違い」になるだろう。はた目から見たら「好きなことをやっている」と言われることもあるが、突飛である。ここ数年はインターネットの恩恵を受ける人も増え、YouTuberが職業として成り立って、情報発信を通して様々な新しい職業が生まれているので、それほど「間違い路線」でもないのだけれど。

後悔、というのは「ブログをやらないほうがいい」と言われたことだ。

「茶人」に対してのイメージというものがある。あなたは雰囲気ではそれを醸し出せているが、文章ではそうではない。つまり知的で清貧なイメージをブランディングしていくのに「ブログ」を書いてはいけない。

という内容だった。

実際、僕は大学生のころに200記事ほどブログを更新していて、月に3000PVくらいはあったし、何度か炎上も経験していた。

200記事書いたところで、たしかに、自分は文章力も低く「言えること」が「書けない」という実感はあった。本を読んだり経験を通して得た情報を脳から引き出して音声にする速度と、文字にする速度の間に大きな隔たりがあって、文字にすると、書いている間にどんどん言いたかったことを忘れていってしまうし、陳腐な表現におさまってしまう。

音声でのコミュニケーションは、発声のしかたでだいぶ印象が変わる。相手があって会話があるので、相手の言葉遣いに合わせたり、速度や呼吸に合わせることが大事だ。ゆっくり間を取って話すことでインテリジェンスな雰囲気を醸し出すこともできるし、専門知識はかみ砕いて言わないとわかりづらい。

ところが文章になってくるとコミュニケーションとしてまったく別のフィールドで、そもそも「話しかける相手」も不在である。独り言になってしまう。

言い文章を書く人というのは「語りかける相手」を意識しながら文章を書くらしいが、まだその感覚はつかめていない。

「語りかける相手を意識する」どころか「言いたいことすら適切な言葉選びで言えていない」のだから困ったものだった。

そんな状況で、4年ほど前に「あなたはブログをやらないほうがいい」と言われ、そうか、と納得してしまった。安心したのかもしれない。書くことから解放された、と。

ところが4年間茶人を続けてきた結果、実績として6000人に抹茶を点ててきた経験はあり、好きなことで生きてきた経験も残ったのに、その経験を「言葉」として操作することができない自分のままだった。

きっと、会社員であれば、あるいはメンバーとの密なコミュニケーションを必要としていれば、同僚やメンバーに説明するために言語化をする必要性が生じ、日々のメールの中で自分の考えが整理されていったのだろうが、ぼくにはそのような状況はほとんど必要なかった。

必要なかっただけで、内省的に日記にでも書きつけていればまた違ったのだろうけれども、さぼっていた。

今になって「言語化できる」ことの必要性を感じた。遅すぎることはない、遅すぎることはないのだけれど、それでも悔しい気持ちが先行する。

もし「ブログを書かないほうがいい」なんて言葉を真に受けずに、恥ずかしい思いをしてでも書き続けていたら
もし「自分のためにだけでも書いておこう」と日記だけでも書いていたら

もう少し良い文章が書けるようになっていただろうか
もうすこし人に発信力のある人間になっていただろうか

悔しくてたまらない。

書けば書くほど、書けなさと向き合っている今、4年間を取り戻さなければいけない、という意識がある。

失敗してからやる気の出る人

 

モチベーションに頼らないほうがいい。習慣にしてしまったり、仕組みにしてしまったり、やると決めたからやると思考停止したりすればいい。

 

と常々思っていたのだけれど、とは言え、その「習慣にする」「仕組みにする」「やると決める」ためのやる気というレベルから考える必要があるのかもしれない、と思ってきた。

 

なんとなく、生まれたときから不景気で、終身雇用も無くなり、閉塞感があって、なんのために生きているのか分からないという感覚の、生きているから生きている人はかなりの数いるんじゃないだろうか。

 

頑張っても報われない、頑張っても褒められない。テストでいい点を取るとか受験に合格するとか、友達が増えるとか、恋人ができるとか、なんでもいいけど、なんのためにやってるんだ?という虚無感に襲われることってないだろうか。

 

褒め上手な先生に教えてもらうと「おー!すごいな!」「さすがだな!」と褒めてもらって、べつに最初はやる気はなかったのになんだかやる気が出てきて、それでうまいこといった経験がある人もまた少なくないだろうと思う。部活、スポーツ、習い事、塾。

 

「人は社会的な動物」を言い換えるならば「人は人のために頑張る生き物」とも言える。

 

人の役に立つから、人が喜んでくれるから、人に迷惑をかけたくないから、守りたい人がいるから。

 

一生独身でいる人だって、誰かのために頑張っている気持ちは少なからずあるのだと思う。あるいは、代替的に犬や猫のためかもしれないけれど、それもまた尊い姿だ。

 

そんなことを考えていたら、「意欲が出るきっかけは人によって違う」という趣旨の話を読んだ。

 

意欲が出るきっかけは人によって違う。「成功したらやる気が出る人」もいれば「適当にはじめて失敗してからやる気が出る人」もいるし「成長を実感したらやる気が出る人」もいる。

 

なるほど。これで言うなら僕は、適当にはじめて失敗してからやる気が出る人かもしれない。

 

なにかをはじめるとき、たとえば僕は昔ピアノを習っていて、音源を聞くと「なんだ簡単そうだな」と思い、弾いてみた時に「ウケる全然弾けない」とショックを受けて、練習を頑張る、というスタイルだった。

 

ウケる、とショックは共存しうる。

 

この場合、弾けないことは、自己肯定感に影響しない。

 

「理想の自分なら弾けるのに」と思っているのだと思う。

 

苫米地博士のコンフォートゾーンの書籍を読んでいたときに「タイガー・ウッズは理想の私ならこんなの決めてあたりまえ」と思っているから常にベスト以上の力を出せる、という趣旨のことを書いていたことを思い出す。

 

ぜんぜん違う話なのかもしれないけれど、イメージの中の自分はできるのに、やってみて、やれない自分に気づいて、やる気が出る。ということは僕の中では、パターンとしてあるなと思った。

 

受験勉強も「おかしいなもっと点数とれるのに」と思っていた時が一番勉強していた

 

茶道のお点前を美しくする稽古をしていたときも「おかしいな、もっと美しくできるはずなんだけど」と思っていた。

 

こう書くと、めちゃめちゃナルシストだな!と思うのだけれど、人に言ってるわけではないのでセーフにしてください。(ブログに書いた時点でアウトかもしれない)

 

つまり、イメージの中では完璧なのに(まだやってないがゆえの)やってみることで、できてない自分を発見してしまって、イメージに合わせていく、という感じて成長するパターンがあるな、と思った。

 

そういう意味で、頭の中だけで「やったつもり」になっている時が一番なにもしない。なぜならすでにイメージだけで満足しているから。

 

どうでしょうか。インターネットが発達した現代で、歌とか、サッカーとか、野球とか、上手な人の動画を見ただけでなんだか自分もできてるつもりになって、有識者のコメントを覚えて満足して、頑張ってやってる人に向かって(やったこともないのに)知ったようにアドバイスしてしまう、みたいな人いませんか?そんな自分はあなたの中にもいませんか?

 

 

ジョギングをしたおかげでちゃんと働きたくなった

先月からジョギングをはじめた。

 

「体力をつける」という課題に対しての取り組みで、何キロ走るとか何分で走るとかの目標値はないものの、習慣化に成功したようで、こうして継続している。

 

8月は合計で14日、67km走った。

 

はじめは2.5km走るのも30分くらいかかっていて、歩いてるほうが早いんじゃないか。と落ち込みながらも赤とんぼが隣を飛んでいる景色に気づけてよかったなんて能天気に走っていたら、日に日に心肺機能が高まってきたのか、月の終わりには7kmを50分くらいで走れるようになっていて、成長の実感があった。

 

しかし、突然走り始めたせいもあって、膝のあたりにすこし違和感が出てきた。だから毎日走るのはやめて、適度に走ろうと思った。

 

適度に、は実は一番難しいような気がしていて、つい「今日はいいか」と延期してしまう。

 

このまま走らなくなってしまうかも、とも思ったのだけれど、そんな心配もなさそうで、今月は9/5、9/10に7kmと5km走った。




 




 

もう、めっきり秋で、汗はどんどん冷えていく。ほてった身体に水のシャワーをかけるのが楽しみだったのに、もう水のシャワーの出番はないかもしれない。

 

ジョギングを始めてから、一番効果を感じたのは、行動量が増えたことだ。

 

目論見どおりではあるのだけれど、ブログも8月からこの記事で合計102本目で、だいたい一日に2本以上は書いている計算になる。

 

いい文章が書けているとは決して言えないけれど、書くことによって思考がクリアになっていくし、まだ自分の中で整理されていないことが分かったりして良い。

 

アクセス数も多少増えて、最近だとデイリー30PVくらいはある。月間で900くらいにはなる。

 

これもまた全然だけれど、もうすこし文章力がついてきたら、ブログのデザインなども整えたいし、アクセスをとれる記事も書いてみたい。やりたいことが増えてきた。

 

実際のふだんの活動も、リノベーションの工事のことや、物件の購入など、現実的になかなか進まないでいることも多いのだけれど、多くの人との関わりができたり、自分がやっている交流カフェに来てくれたり、日々情報をくれるようになったり、いろいろとうまくいっている。

 

活動内容についてよく分からなければ過去記事をご覧ください。

 

体力があると、一日が長く感じるし、なんだかストレスも感じにくいし、頭も回る気がする。

 

今まで、人生そのもののなにかに悩んでいたというか、心のどこかに引っかかりがあったような気もするのだけれど、それもいつの間にかなくなってしまって、もはや何に悩んでいたのかわからない。

 

というのは、今まで「働くこと」「稼ぐこと」への嫌悪感がとてもあった。資本主義という社会についての漠然とした嫌さがあった。それは自分の弱さに由来した感情で、多くの人よりも体力がなくて精神的ストレスに弱くて、満員電車も乗れないし、理不尽に耐えることなどまったくできないし、適合できない感覚があったからだ。

 

会社に入って週5日間、毎日同じ会社に通って同じ人たちと顔を合わせていたら精神に支障をきたしてしまう。と思っていた。義務教育で矯正されるべき人格が、矯正を免れたまま大人になってしまった。

 

そういうわけで、はやく資本主義の次の社会(生産力が極限まで高まり、生産コストは極限まで下がった社会。そしてAIがさっさと人間から仕事を奪って、人間にはベーシックインカムが支給され、人は働かなくてよくなった社会)が来たらいいのに、と思いながらお茶を提供していた。

 

お茶に精神的なやすらぎを求めている人は、社会的なストレスで疲れている人も多いため、僕のその「ありかた(好きなことで価値提供して生きていく)」は一種の理想として映るのだろう。

 

内実は、漠然とした生きていたくなさと向き合い続ける人生で、理想でもなんでもないのだけれど。貧乏でも消費活動にお金を使わないために最低限暮らせればいい。くらいの感じだからお金を稼ぐ必要がないだけなのだけれど。

 

そう。それで、「働く」とか「稼ぐ」ということへの嫌悪感が最近薄れてきたのが驚いたことだ。「体力がついた」「行動量が増えた」によって「時間が余る」「動きたくなる」という欲求が出てきた。

 

こんな簡単に働きたくなるならもっと早くにジョギングをしておくんだった。

 

体育会系だった人たちが商社や保険会社などに入ってバリバリ働くのはこういうメカニズムもあったのか、などと一人で、ジョギングをしたあと、まだ火照っているアスファルトに寝そべりながら思ったりもした。