Everything is better than

日記ということにします。しばらくは。

書くことの「怖さ」

 

 

良い文章の裏にある良くない文章の山

ふだんからどうでもいいことも書いておかないと、文章の奥行きや、幅の広さや、自由さを失ってしまうというニュアンスの文章を読んで、思わずうなづいてしまった。

 

「良い文章」を書きたいとしても、その下には山ほどの「良くはない文章」が死屍累々と積み重なっているものなんだろうなと思う。

 

泥で濁った水の入ったバケツがあったとして、しばらく置いておくと泥は沈殿して、上澄みは透明できれいな水になってくる。

 

と言ってもバケツのそれを飲めるわけでもないのだが、どうでもいいことの山から生み出されるいい文章のイメージはそんなかんじかもしれない。

 

もしくは川原のたくさんの砂利の中からひときわ綺麗な小石を見つけるかんじ。

 

砂利はTwitterから見つけてくるのではなく、あくまで自分が書いたモノの中からしか見つからないような気がする。

 

文章を書くことの怖さ

友人に書いたブログを送って読んでもらっていたら「私も書きたいけど文章を書くのが怖い。あなたは怖くないのか?」と聞かれた。

 

「怖さ」もいろいろあるので何を指しているのかいまいちわからなかったけれど「リスク」なのか「文章に対しての不信」なのかどちらなのだろうかと考えていた。

 

「リスク」については、もうしばらく書いていったらまた変わるのかもしれないけれど、今はほとんどアクセスがないので何も怖いことは起こっていない。

 

以前の話で言えば、ネットストーカー気味な人に出くわしたこともあったし、一度炎上したこともあった。

 

自分が男性だからというのもあるかもしれないが、リアルで凸されることへの恐怖はそんなにない。煽ってもいないのでそういう人は出てくないだろうとも思う。

 

炎上は気分は良くなかったけれど、インフルエンサーの人を見ていると基本的には「慣れ」なのだろうと思う。

 

人間は物理的に危害を加えられない限りは死なないので、言葉での攻撃へは自分がどう向き合うかだ。

 

自分が間違ったことを言っていないなら平謝りでいいし、間違えたことを言っているならきちんと謝るしかない。現実と同じだ。

 

ただ、それで言うなら「文章への不信」にも繋がってくるのだけれど、言いたいことを不足なく書けていないので、それはかなりストレスだ。

 

つまり、「自分の意見」として提出するには不十分な文章を今は書いている。これを読んで「そういうことを考えてるんだな」と固定化されて見られるのは「怖い」

 

書いていくことで書けるようになる

まあ、悔やんだところで自分は自分でしかないのだから、自分のペースでやっていくしかない。

 

今日書けるようになったことの積み重ねが、1年後の文章を作っているんだ、と思うことで気長にやっていくことができる。

 

たしかに、インターネットで発見した自分よりも年下の人の書いた文章を読んで嫉妬することもある。

 

けれど、「怖い」で言うならこのまま「書かない人生」を続けていった先に、今日以上に悔しい気持ちになるほうが「怖い」かもしれない、とだけ思う。

太宰治の『斜陽』に見る文化資本

太宰治の斜陽を読んだことはあるだろうか。
名家でありながら没落した太宰の実家をモデルにして描かれた小説である。

斜陽について

昭和20年の戦後日本が舞台。
29歳のかず子と母は東京の家を売って伊豆で暮らすことになる。弟の直治は戦争から帰ってきた者の不良ぶって東京で放蕩生活を送る。
直治が尊敬する小説家の上原二郎は酒におぼれている。そんな四人がゆるやかに破滅していく様子を描いた作品である。

ゆるやかな破滅と、滅びゆくなかの美しさ。

着物を売ってでも貴族生活が抜けきらない母とかず子の女二人暮らし。
直治は酒ばかり飲んで遊び惚ける始末。
母の体調も悪化し、生きている理由も亡くなるかず子は「女としての生命」を守ろうと、直治の慕う小説家上原二郎にあなたの子どもが欲しいと手紙を書く。
そして直治は自宅で自殺。
かず子は上原二郎の子を生み、シングルマザーとして子どもを生きがいに生きていく決意をする。

そんな、複雑な心境になる話であるが、作法や、ゆとり、美しさ、品とはなにかを考えさせられる描写がいくつも出てくる。

『お母さま』のスープを飲む描写

たとえばこれ。

「スウプのいただきかたにしても、私たちなら、お皿の上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプを掬い、スプウンを横にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、お母さまは左手のお指を軽くテーブルの縁にかけて、上体をかがめる事も無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさっと掬って、それから燕のように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、スプウンの尖端から、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。そうして、無心そうにあちこち傍見などなさりながら、ひらりひらりと、まるで小さな翼のようにスプウンをあつかい、スウプを一滴もおこぼしになる事も無いし、吸う音もお皿の音も、ちっともお立てにならぬのだ。それは所謂正式礼法にかなったいただき方では無いかも知れないけれど、、とても可愛らしく、それこそほんものみたいに見える。また、事実お飲み物はうつむいてスプウンの横から吸うよりは、ゆったり上半身を起して、スプウンの尖端からお口に流し込むようにしていただいたほうが、不思議なくらいにおいしいものだ」

(太宰治『斜陽』)

後から身に着けた、付け焼刃の作法やマナーではなく、お母さまの教養がにじみ出るような一連の所作。太宰治の描写もすさまじい。

茶道と所作

私は8年前に大学生になって初めて茶道に触れたとき、この『斜陽』の『お母さま」のような「文化資本」が自分には欠落していたのだ、と感じた。

私は自分のことを千葉の団地で育った一般市民であると思っていたけれど、生育環境の面で、親からは所作振る舞いであるとか社交の方法であるとか、そういうものを学んでこなかったことに少なからずショックを受けた。

と同時に憧れを抱いて茶道に取り組んだのだった。

上品らしき振る舞いというのはいつ身に着けても遅過ぎることはない。

歴史的な流れを見て、茶において丁寧な振る舞いをするようになったのは、室町時代頃と考えられている。

禅院の茶礼をまねて茶を点てていた時代は、茶を点てるのは陰でおこなっていた。やがて客の目の前で点てるようになり、貴族が所有している貴重で高価な道具を使うようになったために袱紗で拭くとか清めるといった所作が生まれていったのではないだろうか、と大日本茶道学会会長であった田中仙翁氏も『茶道の美学』で述べている。

そして茶を点てる点前の美しさについてもこのように言及している。

「茶席に坐った客も、亭主の訓練を積んだ点前を見つめることによってすべてを忘れた。集中によって得る心理的な安定感と心の平静さはだれでも経験することであろう」

「飯をすすめ、茶を飲ませる、というきわめて日常的なことを、いかに改まって、しかもさりげなく行うかが、先人の最も心を砕いたところであろう」

所作振舞いを持っていない人は後天的に身に着けるしかない

茶を淹れて、飲むだけの誰もが行う動作を「美しい」と思わせるには「修練」が必要であるというのが「茶道」の立場であると思う。もちろん「美しい」と思わせるというのは極めて一部の意識であって、全体ではないのだけれど。

また、『お母さま』のように生まれながらにして自然に「美しさ」を学べる環境にある人もいて、茶道における「茶会」のように、作法を持っていなければ参加できない社会もある。

家元が開く茶会には政治に携わる人も多くいらしていたし、海外の大使をお招きするときには茶のもてなしをしたいという話も多い。実際に私も何度か海外からいらした方々への茶のもてなしの場を設けたりもした。

人から素敵だと思われたいとか、品の良い人だと思われたいとか、そういう自意識から生まれたモチベーションでは「礼儀」を勘違いしてしまいますよ、という指摘もあるようだが「過去の自分が与えられなかったなにか」を後天的に獲得するのも、充分に素晴らしいことであると思う。

斜陽

斜陽

茶道の美学 (講談社学術文庫)

茶道の美学 (講談社学術文庫)

秋、やる気が出ない

秋、最近やる気が出ない。

ブログの更新もできていなかったので、15日からの週刊日記を書いた。

16日  食品衛生責任者の資格を取得した。

コロナの影響と予防のために4月5月ごろの食品衛生責任者の講座を延期にしたことと、再開後も席数を半分にしたことのおかげで、静岡県内も東京も12月ごろまで満席だった。
唯一、16日が愛知県の稲沢で1席だけ空いていたので滑り込みで申し込みができた。
申し込みは現地で受け付けしなければならないということで、高速道路をつかって片道2時間かけて申し込みに行ってきた。
当日は朝の9時半から受付。遅刻はNG。東名が集中工事期間。遅刻が怖かったので夜のうちに車を走らせて近くまで行った。人に預けた仕事の準備もあって夜中の2時半に出発して4時まで走り、仮眠をとった。7時に走り出したものの案の定謎の渋滞で、8時半に到着。夜のうちに出ていてよかった。
講習は眠気を我慢して受けていたけれど、難しい内容ではなく、義務教育の家庭科の授業の延長のような感じ。飲食店でバイトなどしたことのある人なら特に分からないことはないだろう。
試験があるというので不安だったけれど、資格取得にはなんの影響もない試験だった。
無事に資格取得できてホッとしたのもつかの間、緊張と疲労がどっと出て、車で爆睡。夜中に目覚めてまた3時から6時まで運転。
体内時計が完全に狂った感じがする。

17日 18日 出店の打ち合わせをした

今度、主要駅のショッピングモールにできたビジネスコミュニティにカフェインドリンクとして出店することになったので打合せをしてきた。
いろいろと問題があるものの、チャンスには間違いないので、頑張ってやりたい。
「3年後5年後にはどうなっていたいですか」という質問、久しぶりにされたので面食らってしまった。
経済的な指標をもって、取り組んでいきたい。仕事は人が運んできてくれるものでもあるのでまずは精いっぱいお茶で人の役に立てるようにしたい。と答えた。
「あなたは周りにどんな影響力を発揮したいですか」と聞かれた。
自分が影響力を発揮するべきとは考えていなくて、「お茶」の力を伝えられればいいと思っていると返事をした。
お茶は日本で1200年以上も飲まれてきた飲み物である。1200年もの間、様々な人たちに必要とされてきたという意味だ。
お茶は決して主役ではないと思うけれど、人や、思想、感情、モノを結びつける不思議な力がある。もしくは、適切な距離を測ることができる飲み物だとも思う。
岡倉天心が『茶の本』で「今こそ茶室が必要なのではないか」と書いたように、「今こそ茶が必要なのではないか」と僕は考えている。

19日 20日 ピザ窯をつくった

今住んでいる町の、北の山のほうに行ったところに新しく広島から移住しようとしている家族がいる。
彼らはパーマカルチャーを学んだとのことで、循環型の暮らしを模索しようとしている。
ワークショップでアースオーブンというもののつくり方を教わった。
主に土と砂を使って五つの層をつくる。耐火層、蓄熱層、構造層、断熱層、仕上げ層だ。
空気を含むパーライトを入れたり、繊維質で構造を強くするために藁を入れたり、砂と土の配合バランスを変えたりして、層をつくった。
ピザだけなら5層もいらなくて、パンを作るためにはこれくらい必要らしい。

作業自体は大したことはなくて、人がたくさんいれば簡単にできることが分かった。難しいのは構造の計算だ。大きさや、必要な土の量、重さや、台座の強度。いろいろな緻密な計算が必要なようだった。1㎝薄いと燃えたりもする。

子どもも多くて、子守役もした。子どもたちの体力は無尽蔵で、かくれんぼと鬼ごっこ、肩車、ジェットコースターごっこをして、元気に遊んだ。筋肉痛になって死んだ。

ブログを書けていない

いい文章が書けてしまったせいでハードルが上がっている。本の引用をしなければとか、構成を考えなくてはとか、日記のような文章じゃだめだとか、自分でルールを作ってしまった感じがある。
まだいい文章を連発できるレベルではないのに期待値だけ高めてしまって反省。まずは質より量。初心に戻ってたくさん書こうと思う。

走っていない

昼夜逆転の生活。子どもたちと遊んで筋肉痛。雨。走らない理由がたくさんあって1週間走っていない。

服は捨てた

まだまだ捨てられる服はあるけれど、ズボンとシャツで6着くらい処分した。

湯船につかっていなかった

疲れた時こそ湯船に入るべきなのに。シャワーだけで済ませてしまっていた。
今日は銭湯に行ってきた。血流をよくして、疲労を回復したい。

瞑想をしていなかった

10分でいいからやったほうがいいと人に言うくせに、最近は10分すらしていなかった。
めんどくさいと思ってしまうと、まったくやらなくなるのが瞑想だ。
今日は久しぶりにお香を焚いて瞑想をした。
心はすこしスッキリした。

筋トレをしている

走っていないけれど、最近は筋トレができている。
腕立て伏せ100回。
懸垂もしている。懸垂器があるので。
12月までの3か月、毎日懸垂できたらいいなと思っている。

なぜ私たちは整理整頓や掃除が習慣化されていないのか

なぜ私たちは整理整頓や掃除ができないのか。

確定申告をしなければいけないのに領収証が見つからない、書類に使う印鑑が見つからない、ボールペンが何本もあり、家のいろんなところに散らばっている。着ない服がたくさんある。積ん読がたくさんある。

日常的に清潔で整理整頓された生活を送りたいと思っているのにも関わらず、現実はそうではない。

私です

最近では「片づけられない」の根本的な原因に「精神的な問題がある可能性」が指摘されてきている。

居住空間において大量の物品を度を越して収集することを止められずに著しい苦痛や生活不全を起こしている場合を精神疾患のひとつに分類し「ため込み症」と定義されていたり、鬱気味で無気力になったことが原因でゴミ屋敷になってしまうという分析があったり、ADHD注意欠陥多動性障害)の特徴のあらわれではないかという指摘があったり、様々な見解がある。

実際的には発達障害や精神病、鬱もグラデーションであり、それらの弱い性質が複合的に絡み合い要因になっているかもしれないし、そうでないかもしれない。

いずれにしても何らかの理由で私たちは片付けができない。

「片づけられない」の当事者的見解としては誤った成功体験が原因のひとつなのではないかと自己分析した。

居住空間におけるモノの絶対数は多くないため、整理すれば空間は綺麗になる。

日常で維持できないのが問題なのだが、来客があった時は張り切って整理整頓をして「ギリギリセーフ」にしている(と思い込んでいる)ことだ。

締め切り間際のレポートや書類を、ギリギリに間に合わせることが習慣づいてしまったパターンと同じである。小学生に遡れば夏休みの最終日に宿題をすべて終わらせる行動様式だ。

行動と報酬の誤った結びつき

行動と報酬の誤った結びつきは、心理学の分野でも様々な実験がおこなわれている。

ケンブリッジ大学のウォルフォラム・シュルツらがサルにコンピューターの画面を見せ、知覚のチューブから甘いシロップを出す時に画面上に合図を表示するようにして訓練をする実験をおこなった。サルの脳には電極を埋め込み、VTA(腹側被蓋野)のニューロンの活動を記録した。緑のライトが光った2秒後にはシロップが出てきて、赤のライトが光ってもなにも出てこない。サルは次第に緑のライトが光るとニューロンが活性化するようになる。これは緑のライトと報酬が結びつき、ドーパミンが放出されていることを示している。

サルにとって緑のライトが報酬を示すことをサルが学習し、緑のライトがついた時点でドーパミンを放出した実験結果について神経科学者のディヴィッド・J・リンデンは『快感回路』でこう述べている。

快感と連合学習がこのように合体することで、現実にちょっとした奇跡が起こっているのだ。行動を引き起こす刺激はそれ自体本能的あるいは人工的に快をもたらすもの、たとえばセックスや食べ物や薬物である必要はなく、どんな音でも匂いでも色や形でも記憶でも、快感と結び付けられれば、それ自体が快い刺激となりうる


サルは、2秒後に報酬が確定している緑のライトが点灯してもシロップが出なかった場合、一時的にドーパミンが放出されるものの、シロップが出ないことに気づくとニューロンの活動がほとんどなくなる。これは「学習を上書きすることができる」ということだ。

しかし、実験は続く。報酬が確定している緑のライトと、報酬のない赤のライトに、50%の確率で報酬が出される青のライトを追加して実験したとき、青のライトが点灯したときに一番、長い時間のニューロンの観測と、最大のニューロンの観測が見られた。

これはサルだけでなく、人間がギャンブルをしている時、勝つか負けるか不確定の待ち時間、つまりスロットマシンがまわっている時や、ブラックジャックでカードがめくられるのを待っている時の快感についての証明であるともいえる。

人間の脳はもともと、リスクのある出来事から快感を得るようにできている。

進んでリスクをとろうとする神経系は、進化上の適応であったとも言える。つまり、狩猟をおこなうことに快感を感じなければ生存の可能性が大きく下がるからだ。

現在の人類でも、狩猟をするオスの遺伝子を持つ男性のほうが、採集をするメスの遺伝子を持つ女性よりも、ギャンブル依存症や衝動のコントロール障害のリスクが高いことの由来と考えることもできるだろう。

狩猟に比べればチープなリスクであるが、「来客が来る前に間に合うかどうか」という「リスク」に対しての回避成功が報酬刺激になっていることは十分に考えられる。

同様に「締め切り間際にならないとやる気が出ない」もリスクへの誤った成功体験に由来した報酬刺激による誤学習と言える。

習慣とドーパミン

不確実な報酬にもドーパミンは分泌されるし、確実な報酬にもドーパミンは分泌される。動物は「ドーパミン分泌」をひとつの要因に行動を決定している側面がある。

快感と報酬と依存症に関する統一理論は一般化が難しいところでもあるが、習慣形成の要因に「ドーパミン」が関係しているのであれば、リスク回避で得る快感よりも良い習慣を実行したときに得られる快感を新たに自分に学習させればよいのではないだろうか。

依存とドーパミンと聞くと、オーガズム、甘くて脂肪たっぷりの食べ物、金銭的報酬、向精神薬などが連想される。『依存症ビジネス』にもさまざまな「依存」を利用(悪用)した事例が紹介されている。

しかし、神経科学者のディヴィッド・J・リンデンはドーパミンの報酬神経調節器は、私たちはなにかを快いと感じるとき、ほとんどすべての場合に働いていると述べている。素敵な食事、祈りで感じる神との一体感、ランナーズハイ、友人と過ごす愉快な夜。

自分にとって「快い」「楽しい」と思わせれば、新たな習慣形成がおこなえるはずである。

実際、「運動なんか今まで続いたことなかったのに」という人でも任天堂が出したリングフォットアドベンチャーをやっていたらいつのまにか半年くらい継続できていて身体が引き締まった人も、知人でいる。

これは「運動」に対して抱いていたネガティブな気持ちを「ゲーム」の楽しさによって上書きしたと考えることができる。

「運動」が嫌いな人の中にはじつは「体育」が嫌いなだけだった人もいる。集団行動が苦手だったり、うまく動けなくて迷惑をかけてしまった自分が嫌だったり、つまり「運動そのもの」ではなく「体育で生じる人間関係」に苦手意識を持っていたパターンだ。

リングフィットアドベンチャーは、「意外に運動嫌いじゃなかったのかも」と多くの人に思わせたことだろう。

私自身、リングフィットアドベンチャーはやっていないが、大学を卒業して以来まともな運動をしたことはなかったのに8月にジョギングを開始して習慣形成に成功している。

これはいくつも要因はあるものの、アプリでの記録による達成感や、友人に報告した時に「すごい!」と言われる報酬感も大きいと感じる。

ゲーム感覚でやる、というのは凄まじい効果を発揮すると実感した。

綺麗であることと嬉しさを結びつける

そうじ研究家の舛田光洋著『3日で運がよくなるそうじ力』によると、捨てたいのに捨てられない時はどうしたらいいか?という質問にこう答えている。

「タオル1枚からはじめてください。古くなって取っ手のもげた鍋でもいいです」

鍋一つでも捨てられたら成功です。

そんな成功を一つひとつ積み上げることに意味があるのです。ひとつ捨てるごとに、プラスが溜まっていくイメージです。

これは、様々な心理学者が実験している「フット・イン・ザ・ドア」の法則も利用されている。小さな要求から通していくことで、徐々に大きな要求も通るようになるという法則だ。

「フット・イン・ザ・ドア」の実証について、トロント大学のパトリシア・プリナーは「慈善活動への寄付」を募る実験をおこなっている。

ただ寄付をお願いしたところ46%しか寄付をしなかったのに比べて、事前にボランティア活動の賛同者であることを証明するピンバッジをつけることを承諾した地域住人のうち、9割の人が2週間後の寄付のお願いの際に寄付をおこなったという実験がある。

また、よく言われている「思考が行動をつくる」のではなく、最近の脳科学や心理学の分野では「行動が思考を変える」と言われている。

これについて、英国の心理学者リチャード・ワイズマンは「アズイフの法則」を提唱している。「幸せだから笑うのでなく、笑うから幸せだと感じる」という理論で、1960年代の後半にロチェスター大学で心理学を学ぶジェームズ・レアードがおこなった研究によると、しかめ面をさせた人はは不愉快に感じ、笑顔をつくらされた人は幸せを感じる人が多かったという結果が出ている。実際、近年では笑顔でセロトニンが分泌されることも解明されている。

人は「〇〇であるかのように行動すると、そのようになる(感じる)」のだ。

つまり、これを応用すれば「綺麗が心地いいから片付け(掃除)をする」のではなく「片付け(掃除)をするから綺麗を心地いいと思う」という逆転の発想でいけばよいのではないだろうか。

先に片付けをおこなうことで、達成感を味わい、ドーパミンを出すということである。安易だろうか。

三日坊主プログラム

なにかをするときには「計画」と「集中」の二つが必要である。そして、やるぞという不明確な意気込みや覚悟では行動は促されない。

そうじ研究家の舛田光洋は『3日で運がよくなるそうじ力』で「三日坊主プログラム」を提唱している。

三日坊主というと三日しか続かない残念な人というイメージがあるが、逆に「三日間だけ集中してみる」という考え方でおこなうというものである。

三日だけ集中すればいいのか、と精神的コストを下げることで行動のハードルを一気に下げ、成果があがった様子を見て達成感を味わい、また三日間だけ集中する、また三日間だけ集中する、と、増やしていけばいいという作戦だ。

片付け(掃除)苦手な者としては見落としがちなのは、「捨てる」「汚れ取り」「整理整頓」はまったく異なる作業だと認識すべきだということである。

三日坊主プロジェクトでは、このどれかにテーマをしぼり、さらにトイレやリビングやキッチンなど、場所も限定するべきだ、と述べている。

大事なのは、きちんと計画を立てて一つをやり遂げることだ。



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三日坊主プロジェクトを達成する秘訣としては

1、余計なことを考えない
2、頑張りすぎない
3、週末を上手に活用する

の三つのポイントを紹介してくれている。

完ぺきを目指さなくとも頑張りすぎずに8割程度でいいと考えれば楽になるし、忙しいなら三日間連続でやらなくとも、1週間おきにやってもいい。と考えると気持ちも楽になる。

ここで、プログラムをつくってみた。
読んだだけで満足していてはいけない、どうせいつかやることになるなら、今すぐやらない理由もないのだ。

「捨てる」
1、今年着なかった服、去年着なかった服を捨てる 9月17日
2、今年使わなかった何かしらの道具、去年使わなかった何かしらの道具を捨てる 9月18日
3、明確に使う予定のない書類を捨てる 9月20日

以上である。

ミッドフット走法を試してみたらふとももがガッツリ筋肉痛になった。

走ることにした

3月に過労による扁桃腺の腫れで、39度の熱を出し、入院したのをきっかけに「体力をつけなければ」と心の底から思った。

ハンガリー体育大学名誉博士でもある樋口満氏によると『体力の正体は筋肉』である。筋肉は怠け者で、鍛えなければどんどん落ちていく。入院したことのある人なら、あるいはギプスをしたことのある人なら、その前後でゾッとするほど痩せてしまった経験もあるだろう。筋肉はどんどん落ちていく。そして、とくに上半身よりも下半身の筋肉のほうが減少しやすいため、下半身の筋肉を鍛えるべきである。と

また、ハーバード大学医学部臨床精神医学准教授でありマサチューセッツ州ケンブリッジで開業医もしているジョン・レイティによると「運動をすると脳も鍛えられる」のだ。否、著書のタイトルはすさまじい。『脳を鍛えるには運動をするしかない』と言っている。

運動によって認知力の向上が科学的に認められたことを紹介している。ストレス、パニック障害、鬱、ADHD、依存症、月経や閉経時の変化、加齢などにも絶大な効果があると、運動の効果は広すぎるような気もするが、古来より人間は運動をしてきた。人間は走るために進化したとアメリカの運動生理学博士で、起業家でもあるジェイソン・R・ガープは『The Inner Runner 博士が教える運動と成功の切れない関係』で、述べてもいた。

走った

というわけで、8月から走っていた。
アプリでの計測を最初は行わなかったので未計測だが、最初に1週間2.5㎞毎日走っていたので、計3週間は、毎日走った。



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8月のアプリ上の合計距離は66.91㎞だった。

ジョギングをはじめるにあたって、夜に走ったほうがいいのか朝に走ったほうがいいのか、ウェアはどうするのか、シューズはなにを使うのか、走り方はどうしたらいいのか、どこを走るのかなど、いろいろな懸念点もあったが、すべて無視した。

すでに持ってるスニーカーで走ったし、朝に起きられれば朝に走り、途中からは生活が夜型に戻ってしまったので夜に走った。

家の周りを走ったし、走り方も気にせずに走った。最初は歩いているほうが早いんじゃないかというくらいのスピードでしか走ることができなかった。

距離も気にしなかった。走ってみて、もう少し行けそうなら走ったし、疲れて嫌だと思ったらやめた。

とにかく「走ること」の精神的コストを最小限に抑えて習慣化させることだけを考えた。

習慣化のための行動経済学

認知心理学者にしてノーベル経済学賞受賞斧ダニエル・カーネマンは『ファスト&スロー』のなかで、私たちにはシステム1(速い思考)とシステム2(遅い思考)があると述べている。

システム1は直感や経験に基づいて、自動的に高速で動き、日常生活で大半の判断を下している。努力も不要で自分のほうからコントロールしている感覚はない。たとえばモノの距離感や自動車の運転なども含まれる。

システム2は複雑な計算やたくさんの文字の中から必要な情報だけを抜き出すような、頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。選択や集中など。

二つのシステムはそれぞれに能力と欠陥と役割を持つ独立した主体であると考えるべきだとカーネマンは言う。

私たちが目覚めている時、どちらのシステムも起動しているが、システム1は自動的に動き、システム2は努力を低レベルに抑えた快適モードで作動している。システム1が困難に遭遇すると、システム2が応援に駆り出されるのだ。

システム2を働かせないことを考えれば、習慣化のヒントが隠れている。

トロント大学のパトリシア・プリナーはある心理学の実験をした。突然家をノックし、カナダのがん協会のためのボランティア活動をしているものだが、寄付をお願いできないかと言う。訪問先の46%がポケットマネーを募金箱に入れた。そして次の段階ではべつの地域でまず住民に「ボランティアの活動を宣伝するピンバッジをつけてもらえないか」と頼んだ。住民のほぼすべてが承知し、ピンバッジをつけた人たちの家を再び2週間後に訪れ寄付を募ると、なんと9割が寄付をおこなった。

これは「フット・イン・ザ・ドア」というテクニックである。小さな要求からはじめて段階的に要求レベルを上げていく。この寄付の割合が高まった結果について、心理学者のリチャード・ワイズマンによると「アズ・イフの法則」にも当てはまっていて、最初の小さな要求で、住民たちは慈善家であるか´のように´行動したというのだ。

つまりジョギングに「フット・イン・ザ・ドア」を応用すれば、走ってみて疲れたら帰ってきてもいい。走ってみて飽きたら帰ってきてもいい、ととにかく「走る」だけを目標設定にするのだ。

5㎞走ろう、と最初から目標設定してしまうと「今日のコンディションではきびしいのでは」とか「明日も大事な用があるのだからやめておいたほうがいいかも」とかシステム2が作動して新しい行動に対して厳しい目を向けてくると考えられる。

であれば「習慣化するまで」は「最小レベルの要求」で、慣れさせることが重要である。

また、高付加のジョギングを週1回おこなうのではなく、低負荷のジョギングをなるべく毎日行うことで「単純接触効果」も作用し、日に日に「ジョギングをする精神コスト」は下がっていく。

習慣化した後に

1か月は継続し、2か月目に突入してきた。累計84㎞走ったところで「正しい走り方」を調べてみた。

これは、実は走り始める前から気になっていたのだけれど走るのも「正しい」フォームがあるのだ。

とくに、かかとで着地するか、足の真ん中で着地するか、つま先寄りで着地するかは選手生命に関わるほど重要なことであると述べている人もいる。

もっとも、元女子マラソンランナーの有森裕さんは

自分が最も走りやすいと思う位置で着地すればいいと思いますし、あまり「つま先、真ん中、かかとのどこで着地するか」ということに意識をとられすぎないようにしたほうがいいのではないかと思います。なぜなら、着地の仕方は、ランナーのフォームや体格、筋量だけでなく、上りや下り、平坦、トラック、ロード、トレイルといった地面の状態によっても異なるからです。

と言っていて、自身のキャリアで着地のフォームを意識したことはなかったものの、故障したことはなかったそうだ。

走り始めたときに思っていたのは「走るだけでも意志の力を必要としているのに、正しいフォームを気にしたり、怪我のリスクを心配していたら、習慣化する前に面倒くさくなってしまう」ということだ。

多くの人も経験したことがあるだろう。たとえば絵を描き始めたときでもいいし、料理をはじめた時でもいい。なにか新しいことをはじめようと思ったとき「もう少し空の色に白もつかったほうが奥行きが出て綺麗に見えるよ」とか「切り方が雑だね、大きさは揃えたほうがいいよ、熱も均等に入るし」とか、正しいとしても、やる気が無くなる一言がある。

自分でもそれは自分自身に対してやりがちで、最初はやっているだけでもえらい。やったかやっていないかだけで50点か100点かを決めるべきだ。やろうとしただけで50点はあげてよい。

というわけでようやく「走るだけは余裕になってきた段階」で次のステージに進むことにした。

走り方について

着地法には三種類ある。

かかと着地、ミッドフット着地(足のまんなか)、フォアフット着地(つま先)である。

2004年開催の札幌国際ハーフマラソンではランナーの約75%がかかと着地だったそうで、日本人は基本的に自力で走ろうとするとかかと着地になってしまいがちだ。

実際、自分が走っていた時のことを思い出しても、かかと着地をしている。

でも、たとえば、大きな水たまりを飛び越えるとき、かかとから着地するとかかとの骨から衝撃が伝わり、全身がしびれるような感覚になる。

あるいは、音を立てずに歩いてくださいと言われれば、抜き足差し脚忍び足、のようにつま先から歩くことで体重移動を円滑におこない、静かに歩くことができる。

本当は、身体に衝撃を与えない歩き方(重心をブラさない歩き方、骨や関節にストレスのない走り方)は身体が知っているのだ。

それなのに、なぜか、日本人はかかとから着地する方法がオーソドックスだと思い込んでしまっている。いや、少なくとも私はそうだった。

それぞれの走り方のメリットとデメリット

もちろん、それぞれの走り方にもメリットとデメリットがある。

かかと着地のメリットは、ふくらはぎやアキレス腱への負担も少ないため、走る筋肉や腱ができていなくても走りやすい。
デメリットは、地面との接地の角度の都合上、ブレーキをかけるかたちになってしまうということ。そしてかかとの骨に衝撃が加わること、足がまっすぐ伸びた状態になっているために膝関節を傷めやすいことなど。

ミッドフットのメリットは、足への負担を軽減できること。足が曲がった状態で着地することで、関節と筋肉で衝撃を吸収し、関節への負担を軽くする。着地時のブレーキもなく、ロスなく速く楽に走れるようになる。
デメリットは習得に時間がかかること。かかと着地をしていた状態から矯正するには時間がかかる。そして、かかと着地に比べてふくらはぎやアキレス腱への負担がかかる。

フォアフットのメリットは、効率よく走れるようになること。力のロスがなく、省エネ走法になる。
デメリットは、日本人は習得が難しいこと。日本人は骨盤が落ち、重心もかかと寄りにあるため習得が難しい。無理に習得しようとすると、アキレス腱やふくらはぎの筋肉を傷めてしまうことになる。

ミッドフットを試してみた

さて、実際に、かかと着地をやってきた上で、ミッドフット着地を試してみた。

その結果、走って1㎞を過ぎた時点で、ふくらはぎと太ももの筋肉が疲労してきた。明らかに今まで使っていなかった筋肉を使っている感覚だった。最終的にっは7㎞走ったものの、すでに走り終わった時点で筋肉痛になっていた。

かかとへの負担が減る分、ふくらはぎや太ももの筋肉、腱への負担が増えるというのは本当だった。

これは正直、けっこうきつくて、4㎞超えたあたりで、もう歩いて帰ろうかなと思ってしまったくらいだった。

8月のはじめからミッドフットで走っていたら、きっとつらくて毎日走る気力は無くなっていただろうと思う。

実際、昨日の夜に走って今20時間経過したが、今日は走りたくない。

ジョギングを継続する。月80㎞を目標に。

英国ハートフォードシャー大学の心理学者リチャード・ワイズマンは「アズイフの法則」を提唱している。

アズイフ(as if ~のように)、これは米国の心理学者(1842年生)ウィリアム・ジェームズの「行動が感情を生み出す」という仮説に基づいていて「幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せだと感じる」というものだ。これは1960年代の後半にロチェスター大学で臨床心理を学んでいたジェームズ・レアードがウィリアム・ジェームズの著書『心理学の諸原理』を読み、実験をした。

被験者に笑顔やしかめ面、怒り顔、悲しみ顔をさせて、それが怒り、不安、喜び、後悔などの感情をどの程度感じたかを記入させた結果、笑顔をつくらされた時は幸せを感じ、眉をしかめさせられたときは不愉快に感じる割合がきわめて高かったのだ。

リチャード・ワイズマンはイギリスで数千人を集めて幸福に関する実験を行った。世の心理学者が考案した様々な幸福感を高める方法のうち、どれがもっとも有効かという実験である。いくつかのグループに分け、それぞれに幸福感を高めるための方法を試してもらった。感謝の気持ちを持つようにする、幸せな気持ちをよみがえらせる、など。そして毎日数秒ずつ笑顔をつくるグループも。一番効果が上がったのは顔の表情を明るく変えたグループだった。

アズイフの法則は「幸福感」だけでなく、生活習慣にも応用できる。

人は自分を「習慣の動物」だと思っている。そして、肥満や食べ過ぎなどの望ましくない行動は自分が習慣の動物であるかのように行動した結果生まれる。それならば柔軟に行動をするように指示され、それに従って生活すれば考え方や行動のパターンから抜け出し、自分の人生を自分で切り拓けるようになるのだ。

「やる気のある人間になったかのように行動する」ことでやる気のある人間になれる。これがアズイフの法則の効果である。

「やる気のある人間になったかのような行動」は筋肉を緊張させる、背筋を伸ばし座る、などでいい。
これは、やる気のある人は筋肉を緊張させる人が多いからで、背筋を伸ばして座っている人が問題解決に取り組める時間はそうでない人よりも2倍近く長かったからだ。

アズイフの法則を、ジョギングの習慣形成に役立てるなら、ジョギングを続けている人の行動を先んじて行うのがよいだろう。

具体的には、ランニングシューズを買う、ランニングウェアを買う、ストレッチをするなどでもいいかもしれない。

走る段階においては、「走ろうかな、今日は辞めようかな」と考えたり「走ると健康にもいいし、脳の機能も高まるんだ」と説得しようとせずに、とにかくシューズを履いて、家を出ることだろう。

僕は今月は80㎞走ろうと思っている。

この80㎞という具体的な目標もコロンビア大学でモチベーション理論を教えるハイディ・グラント・ハルバーソンが『やり抜く人の9つの習慣』で第一に教えていることである。

やせたいと思うなら目標を「痩せる」ではなく「5㎏やせる」にすべきだと。そして、具体的な目標を決めたらいつまでに何をするのかが決まる。

具体的な目標は、やり抜く力を与えてくれるのだ。

今月は13日時点で18㎞しか走っていない。残り62㎞だ。1回に5㎞から7㎞は走れるようになったので、5㎞で割ると残り13回、7㎞なら9回だ。

この目標は、先月に14回走って計67㎞を走りきることができたので、すこし距離を伸ばした目標を立ててみた。





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目標の立てかたは難しくて、難易度が高すぎても到達できずにやる気が出ないし、逆に簡単すぎてもやる気が出ないものだ。

たとえばブログの本数も、体重を増やす減らすも、1か月程度計測してみてそれを基準に「もうすこしやれるかな」というつくり方は大事だ。

カーネギーメロン大学大学院で博士号を取得した脳機能科学者の苫米地英人はゴールの達成方法として「高いゴールを設定しろ」と述べている。高いゴールを設定することにより、人間はエネルギーと創造性を生み出し、高いゴールと現状の間にギャップが生まれ、秩序を再構築するために意欲が放出される。と。

しかし抽象度が高すぎるとリアリティができにくいため、抽象度の低いゴールを設定し「もう達成できそうだ」と思ったら新しいゴールを設定したほうがいいとも言っている。

ジョギング(体力づくり)は自分にとってゴールの一部なので月150㎞を軽く走れる体力をつけて、また高いゴールへの行動をしていきたい。

手ぬぐいを使っている理由

結論から言うと
吸水性が高い、すぐに乾く、かさ張らない。その三点がとくに手ぬぐいのメリットです。

それ以外にも、肌を傷めない、ヘアキャップになる、衛生的であるなどの下位メリットもあります。

1、吸水性が高い

洋晒のハンカチと比べた時との比較でしかないのですが、ハンカチはその製造方法の事情から糸に引っ張りをかけられているので空気の含みが少なく、水を抱え込める場所が少なく、吸水性が下がるとのこと。

一方で手ぬぐいは毛羽立ちが適度にあって、生地をむりやり引っ張っていないので空気を含んでいて水を抱える場所が多く、吸水性に優れていると。

手ぬぐい屋さんのブログに書いてありました。

実際に、カフェに行って冷たい飲み物のグラスが汗をかいてテーブルを拭く時にハンカチを使っても全然吸水してくれないなーと思ったりしていました。

手ぬぐいは水に触れればスーッと吸水してくれるのでストレスなく拭くことができていいです。

柄の手ぬぐいはそういう意味で「ハンカチ」代わりにも使えるのですが、僕はバスタオルとしても使っています。

僕はけっこう前から「バスタオル」を使いたくなかったんです。

バスタオルって、ふわふわしていて、よく太陽に干した後とかだとお日様の香りもするし、幸せな気分になれて好きなのですが、とにかくかさ張るし、洗濯しても乾きづらい。

自分で洗濯物を干さない人は分からなくて、一人暮らしの人や洗濯をする人あるあるだと思うのですが、分厚いバスタオルってとにかく乾かないので、Tシャツは乾いてるのにバスタオルだけまだ生乾き、みたいなことってありますよね。

なので「バスタオル」程度の吸水性がある手ぬぐいを使うことで、ふかふかさは全くないのですが、そのあたりのストレスを軽減することにしました。

ビショビショになっても、よく絞ればすぐにまた吸水するようになるので、二、三度拭けば体は完全に拭けるし、そのあとに頭に巻いておけば、髪も問題なく乾きます。

2、速乾性が高い

上でも説明してしまいましたが、手ぬぐいはとにかく乾くのが速い。

ビショビショになっても、畳んで絞って、洗濯物を干す前にシワを伸ばすようにパンッと振ると、さらによく乾きます。

雨で涼しい日とか、ハンガーにかけておいても一晩でタオルが乾かないということがよくありますが、手ぬぐいならそんなことはなく、一晩も置けばパリパリに乾いています。

銭湯に行くときに、ビショビショのタオルを持って帰ってくるのが嫌だとか、旅行の時に干しておいたのに朝、生乾きのまま持って帰りたくないとか、そういう心配もなくなります。

濡れているタオルは重くなってカバンの中でも邪魔になるので、しっかり絞った手ぬぐいのほうがコンパクトで使い勝手が良いと思います。

速乾性で言えば、セームタオルを買ったこともあります。

小学生のころスイミングを習っていた時に、インストラクターの先生が使っていたのがかっこよくて、3年くらい前スポーツジムに通ったのをきっかけにセームタオルを買いました。

吸水性と速乾性で言えばもう最高レベル。

しばらくはそれを使ってもいたんですが、手ぬぐいとの違いはやはり「拭く」以外に使えないこと。
手ぬぐいなら頭に巻けるのに、手ぬぐいなら身体を洗うのにも使えるのに、そういうマルチな能力も考えると、吸水性と速乾性のトップよりも手ぬぐいのほうが便利でいいな、と思いました。

3、かさ張らない

これもすこし上で説明してしまったのですが、ふつうのタオル、バスタオルと比べて圧倒的に体積が小さいため、かさ張りません。

普段、家で置いておくときにもかさ張らないのは有り難いのですが、とくに力を発揮するのは、旅行の時に荷物として小さくなるという点。

タオル、バスタオルを持っていくとかなりの面積をとることになるし、帰りは濡れたものを持ってくることになるので最悪です。

家ではともかくとして、ここ7年くらいは旅行や友人の家に泊まりに行くときにバスタオルもタオルも持って行ったことはなく、基本的に手ぬぐいを持っていきます。

折りたためばハンカチくらいの大きさなので邪魔にもなりませんし、ハンガーをひとつ使えば翌朝には完ぺきに乾いています。

自分はミニマリストを目指しているわけではありませんが、ミニマリズム的にも省スペースな手ぬぐいのほうが便利だと思います。

4、肌を傷めない

体を洗うことにも使える手ぬぐい。
体を洗うで言うと、無印良品の泡立てボールを使っていたのですが、なんだか肌に傷をつけやすい感じがして好きじゃありませんでした。

泡立てネットは190円でやすいのですが、使用しているうちにけっこうボロボロになってくるし、真ん中のあたりからほつれてバラバラになってしまいました。

木綿の手ぬぐいはやわらかく、泡も泡立てネットと同じようにフワフワのものができるので、無駄に用途を分けて泡立てネットを使うよりは手ぬぐいで十分だなと思うようになりました。

ガシガシ洗わないと汚れが落ちている気がしないという人もいるかもしれませんが、そんなにこすらずともちゃんと垢はおちているようなので安心していいと思います。

僕も昔はへちまを乾燥させたものを使っていたこともあって、肌が赤くなるくらいこするのが好きだったのですが、肌がガサガサになってしまった気がしてやめました。

なんでも相性があるので一概には言えませんが、敏感な肌の方はこういったやわらかい木綿の素材で洗ったほうがいいのではないでしょうか。

また、垢すりの道具として使ったあとは、前述のように、そのまま絞ればバスタオルとしてつかえるので、お風呂場にこれと石鹸だけ持っていけば基本的にはおしまいで、省エネです。

5、ヘアキャップにもなる

湯船でゆっくりあたたまりたいとき、髪の毛が邪魔だったりしますよね。
後ろのほうから、ターバンのように巻けば髪の毛をまとめられますし、ハチマキみたいにしてもいいと思います。

お風呂上りも、髪だけ乾かすのを後回しにするなら、服を着てから頭に手ぬぐいを巻いておけば、時間の経過とともにかなり乾かしてくれます。

あと、ドライヤーで乾かす時に手ぬぐいの上からドライヤーの風を与えると、ドライヤーで乾いた手ぬぐいが髪の毛の水分を吸うので、普通にドライヤーの風で乾かすよりも早く乾くという裏ワザが前にテレビやっていた記憶があります。

自分は髪が長くないのでそこまで違いは分からないのですが、熱すぎる風は髪の毛のたんぱく質を劣化させるので、手ぬぐいをクッションにして乾かしています。

6、衛生的である

速乾性が高いことからの副次的な効果なのですが、すぐに乾くことで雑菌の繁殖を抑えることができます。

よく、手ぬぐいは切れ端がほつれてきて邪魔だとかみすぼらしいとか、嫌がる人は多いのですが、その「ほつれ」こそが手ぬぐいの特徴のひとつで、端が折り曲げて縫製されずに切りっぱなしになっているからこそ、汚れもたまらないし、水分も蒸発しやすいのです。

以上、手ぬぐいを使っている理由(メリット)でした。

手ぬぐいがおすすめできない人

このままでは手ぬぐいの営業マンのようなので、デメリットというか、手ぬぐいが合わない人についても紹介しておきます。


・ふわふわのバスタオルで体を拭きたい人
・ヘアキャップや体を洗うタオルもいろいろな種類を使いたい人
・ほつれが気になってイライラしてしまう人

以上の人は手ぬぐいを使うことはお勧めしません。

手ぬぐいがおすすめな人

逆に
・バスタオルはかさ張るし洗濯もめんどうなので使いたくない
・バスタオルとタオルを兼用して荷物を減らしたい
・すぐに乾くタオルがいい

などを考えていた人には手ぬぐいが間違いなくお勧めです。